私たちが今失いかけているのは語り合いではなく黙りあいではないか。
しかし、語ることがまことのことばを封じ込める、ということがないだろうか。
まことの言葉を知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということはないだろうか。
沈黙が言葉をより厚くする。その感覚が忘れられている現代、沈黙と言葉の折り合いを学ぶために、「聴く」ことの力を見直してみたい。
理(=言割り)とあるように、分かること理解できることは割り切れるコトバでできている。それをね、もっと精密に精密に分析して、その限界(わりきれないコトバ、言葉にならない言葉)にぶちあたっときに絞り出されるコトバには、その人にしか出せない重みが生まれる。
質感を持った、「耳を傾けるに足るコトバ」になる。
彼の説(本居宣長)によれば、「かんがふ」は「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校へて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひかむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は身であり、「かふ」は交うであると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。
その経験が始まるのは、割り切れない言葉にぶちあたったとき。知識(knowledge)ではなく智恵(wisdom)は、この経験を繰り返し折り重ねるところで初めて、折り目のように浮かび上がってくるもの。
これは本のなかの表現なんだけど、なんともステキだなぁって思って。
鷲田先生はこの対談本を読んで私が「ス、ス、ステキーー!!!」ってなった人。
かいつまんで何度か記事にしたことはあったっけ。
ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟(ま)ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現れ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語る人の行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ。
「聴く」ことを「待つ」行為と表現して、それを「祈り」に重ねるのもステキ。祈りのように向けられる注意。他者から発せられた微かな声を、声が消えた後も慈しむ行為。
学校教育には伝える/応えるという人と人との関係性が、験す/当てるという(「信頼」を一旦停止した)関係にすり替えられている。
鷲田先生は『都市と野生の思考(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)』の中で、教育は投資ではなく「贈与(ギフト)」だって言ってて、それに衝撃を受けたんだ。
赤ちゃんはコミュニケーションを最初に両親から学ぶんだけど、それは「いかに話すか」「伝えるか」よりもさきに「コトバにならないコトバに耳を傾けてくれる姿勢」なのだよ。
それから、「音響的空間」がニンゲンの最初の心的空間なんだよってハナシがおもしろかった。聴覚は胎内にいるときすでに発達し始める。赤ちゃんの世界との接点は、音から始まる。
それから視覚的空間(眺める)、視覚―接触的空間(目と手の協応)、運動的空間(動く)とステップを踏む。音響的空間の経験が、「他人に自分の存在の世話をしてもらう経験」のコアなんだよ、って。
「聴覚」は「触覚」なんだってハナシをどっかで書いた気がするんだけど、どこだっけ?私たちは音に文字通り「ふれて」いるんだ。
記号的な意味や物語を交換する以上の力が、コトバにはあるんだ。
音とコトバでもひとつ面白かったのは、「声を合わせる」という行為。同時に声を響かせあい溶かしあうことによって成立する、歌のようなコミュニケーション。体が共存する「ふれあい」。
身体が楽器であるなら、私たちの対話は協奏曲。
そういう「声」を利用した身体の共振性が発揮するチカラのすごさについて、内田樹氏が書いてた気がするなぁ。
この本だったっけかな?
久々にコトバネタ。息子(もうすぐ5歳)のコトバの成長も、もう、すんごく面白んだけど、なかなか書けないや。。。