合気道とヨガという身体を使う「技」を極めた賢者二人が語り合う対談本。
真面目に「空中浮遊」とか「死者」とかちょっとアヤシイ語も出てくるもんだから、面食らうかもしれない。でも特定の思想をプッシュしようとするにおいは無いから、怖がらなくても大丈夫。(笑)
言わんとしているのは、セルフ・モニタリング能力と「生きる力」学び成長する力についてだから。
セルフ・モニタリング能力と、実際に自分の身体を通して得た経験。それから自分に限界を設定しないこと。
ある現象が「うまく説明できない」ということと、
「存在しない」ということはレベルの違うことだと
思える人には楽しくお読みいただけると思います。
もう一冊、続編。
体験談とか対談内容が一冊目と被ってるところも多いんだけど、違うカメラワークで撮った映画をみるような面白さがあったから、不満ナシ!
「死」がテーマとしてピックアップされているけど、高齢者のためのエクササイズ本では、全然ないよ。善く死ぬためには、生命力を高めないといけない。限られた時間と限られた身体能力を最大限活かして日々楽しく生きること。いろんな人にあったりいろんな体験をすることも「死のための仕込み」、そういう究極の視点を持った人のハナシは、やっぱりオモシロイ。
死ぬ準備はいつ始めても早すぎるということはない。
2冊の被っている内容、関連している部分はくっつけて
まとめてメモしたものを雑なままアウトプットします!
知識や情報は、使う。アウトプットして学ぶ。
人に手渡すことで、はじめて自分のものになる。
この対談本でも出てきたからね。
飲み込むのは簡単でも、消化して排泄するのはなかなか複雑な作業なもんだ。
生命力を高める
生命力を上げるというと、栄養とかスキルみたいに「取り入れて増やすもの」のように思われるけど、不思議なことに使わないと増えないのが生命力。判断してみないと判断力はつかないし、知恵は使わなければなんの役にも立たない。とにかく動いてみる。おもしろそうだな、って思ったら行動する。
センサーを敏感にする
「直観力」なんて言葉が流行ってきたらしいけど、精神世界とかフワフワした神秘主義的なものと云うよりは、人間にもともと備わってる本能的・肉体的なものとしてそれを捉えている。そこが逆に新しい視点で、オモシロイ。
直感ってのは生物の基本的感覚(快を求めて不快を避ける)、無意識の反応を身体でキャッチしてるわけだ。言語化される前の、繊細なノイズを拾えるかどうか?はやっぱり身体能力(運動神経とは別物よ)として磨けるものなんだな。
自分の体内や脳内で起きていることにセンサーを働かせることができているか?自分の心身の状態を丁寧に観察することはできているか?直感をキャッチできるかどうか、というと外部からの情報に敏感に反応することのように思いがちだけど、もっと内面的な活動なのかもしれない。
生き延びるための本能、自分を守る力、ってことで直感=生命力でもある。生きる力は、セルフ・モニタリング能力でもある。
心を健康に保つ
年寄りになると頑固になる。これは、柔軟性が弱くなって、複雑な話をする能力がなくなってるから。
同じことを「教えられて」もぐんぐん吸収する子ども、リタイア後も学びを深めることが出来る高齢者、彼らはオープンマインドで、自分で自分に限界をつくらない。
「わけがわからない」ものに遭遇したときに「ありえない」と眼をつむる人は結局、今のレベルからは抜け出せない。自分の知的枠組みの中におさまらないものに対して、すぐに判断を急がずに保留しておく、非決定に耐えられるかどうか。分からないものはわからないもの、と素直に受け止めることができるかどうか。
そのうち自分の知的枠組みがひろがってわかる(判断を下せる)段階に達するなんてこと、よくあるはなし。あ、あのときよくわからなかったアレは、こういうことだったのか、って。
教育について
産業構造の変化がダイレクトに教育分野の価値観に影響を与えているよってはなしが面白かった。「ものをつくる」という行為に対して抱くイメージが、農業従事者が多い時代と工業化が進んだ時代とで違うでしょう。
農業的な「ものをつくる」態度は、潜在可能性がいつ、どんなふうに開花するのか予測不能だから見守る。植物が芽を出し葉を拡げ花を咲かせることは植物自身に内包される力が主であって、人為が関わることはプロセスのごく一部。しかも自然の中だと多くのファクターが関与するから正確な予測が難しい。豊作をヨロコビ、凶作を悲しむ。
一方で工業的な感覚と言えば、いかに効率よく管理するか、が重要になってくる。早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるか的確に予見する。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。なにが生まれるかわからない種子や収量の少なそうな種子、弱い種子は「バグ」として弾かれる。
そのまま、今の学校教育(親の価値観)に重なる。トップダウン式で、横割り競争システムがいいのだ。
この前提のうえで、学校は差別化と格付けの機関という役割を果たす。同年代、同じレベルで輪切りにしてその中で競争させる。みんなができることをみんなよりうまくできること、を強制する。
本質的な「学び」を深めることができる能力ってのは、なかなか育ちにくい環境。というか、それを潰すのが目的なのかも。
ひとつずつできたことを積み上げていって、ゆっくりいいところを伸ばそう、ぐらいの大らかな社会にしたいよね。学び合い、教え合う場が学校の外でもいいからできればいいと思う。年齢やレベルで分けずに。
身体のシグナルに敏感になる
これはひとつ前のブログでちょろっと触れた内容だけど
生きる力、学ぶ力、 は頭だけじゃダメなんだ、と。
運動神経とか体力とも別のハナシ。自分の身体(内側からの情報)に丁寧に向き合うことが出来るかっちゅうこと。
具体的なトレーニング方法として「呼吸」と「歩行」が挙げられているけど、今はランニングとか瞑想も若い人たちの間で流行ってるから、ふむふむいかにも、と納得できるんじゃないかな。
呼吸は意識と身体の接点
基本は、吐くこと。人はパニックになったり焦燥すると息を吸ってしまう。生まれた時はオギャーと息を吐いて、死ぬときは息を引き取る(吸う)でしょう。
生命力は、吐くことで生まれる。
生命力を量的なものとしてとらえると、どうしても取り入れることかなって思っちゃうんだけどね。人に手渡して、自分の外に出して、やっと自分のものにできる。知恵や学びと一緒だね。
呼吸を合わせると一体感が生まれる。この一体感のチカラがすごい。個の頭数以上のパフォーマンスが発揮される。スポーツしてる人とか、合唱する人は実感として経験があると思う。身体を超えてひとつの魂になる感覚、快感。
身体を整えて意識を整える、ってのももう耳新しいはなしじゃないとおもうけど。例えば恐怖心は横隔膜が上がるっていう身体の反応だから、薬指を引っ張って横隔膜を下げて、息をゆっくり吐きだせば、消える。
こういう身体の扱い方を教えてくれる場って、どこにあるんだろう?身体の動かし方とか、表現方法でまるきり空気が変わる感じ、昔ワークショップで味わったことがあるんだけど・・・長崎でしてないかな~。
演劇、身体表現をシンプルに楽しめるやつ。
身体の動きをトレースする脳の動き
ミラーニューロンのことも出てた。実際に行動していなくても、行動しているのと見るとみてる側の脳も同じ動きをしていたって実験が有名なアレ。
このミラーニューロンをめちゃくちゃ刺激すると、幽体離脱してしまうらしい。これって、脳が「自分ごと」として意識する範囲がどんどん拡大していって、自分の身体を超えて俯瞰する視座を持つからじゃない?ってはなしでした。
仮想的な視座を持つってのは、瞑想の取り組みと同じで、意識を拡げるトレーニング。ただ、イメージと意識は違う。頭の中でイメージしただけだと「自分ごと」として意識はされない。
単なるイメージだと意識は動かせないから、経験値を積もうよって流れになってたかな。自分の体験、実感の伴う経験はダイジなのです。と、前のブログの内容に戻る。
意識というデータ
事故で腕を失くした人が、なくなったはずの腕の痛みを訴えるファントムペイン(幻肢痛)という症状がある。物理的にはないのに、意識だけ残っている。
人間まるごとをとってみても、肉体が消滅したあともその人が生きていたというデータ・ファイルが消えずに地球上に残っているなんてこともあるんじゃないか。
そうなると、聖地は聖者に関する多くのデータが集積した場所ともいえる。そこからデータを引っ張り出せるかどうかは別のハナシとして。
死者と集合意識については前も書いたかな。
「記憶」もまた、意識が残すデータなんじゃないか、と思う。
村上春樹が「心のなかには地下一階と地下二階がある」と表現したように、人間の記憶は個人的な記憶(地下一階)ともう一層下の社会的な記憶、集合的無意識(地下二階)があるんだろう、と。
この対談本では「言語」も記憶のアーカイブとして出てきた。私たちは日本語を話すことで、日本語ができてから今までの全ての日本語話者の思念、感情が組み込まれているデータベースに、普段にアクセスしているのだ、と。
コトバを軽く扱うこと無かれ。
言葉や意識といったデータ、それから自然環境の影響によって「宗教」や「信仰」スタイルが形成されていくハナシもあったんだけど、あまりにおもしろいから別の記事にしてまとめたい。
とりあえずここまで!