コトバとジカンとココロについて覚書
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ことばは人間にとって唯一の武器である。
それは競争相手に勝つためや、社会の不条理に立ち向かうため、己の強さをアピールするためのツール、って意味じゃなく。
宇宙最大の王、「時間」に対抗する唯一の武器なのだ。
私たちは読む。過去とつながるために。
私たちは書く。未来へとつなぐために。
言葉は、過去と未来を結び合わせる。
言葉の目的には「伝達」と「表現」とがあるけども、この本は「表現」としての文の綴り方がテーマ。といっても、技術的なハナシでもなければ精神論的なハナシでもない。
前回読んだ『私家版 日本語文法』は日本語に特化したコトバネタだったけど、こちらはもっと広く「言葉という存在そのもの」に迫る。
文体(その人らしい文章のフォーム)についてのパートに
❝彼が真の文体を獲得するのは、彼が彼なりに人生の真実のようなものを発見したときだろう❞
とあった。
「そうか、そういうことだったのか!」と発見してイキイキと生命が躍るとき、その躍動が文のフォームに衝撃を与える。衝撃で崩れかかるフォームを駆使して掬い上げた真実が、そのコトバ遣いが、彼自身の文体なのだ。
❝生命おどって書いたものにのみ、文体がある❞
生命の躍動を感じる文、その人の文体を感じる作品に、人は感動する。たまらんね。
この本を読み終わった日、夜中2時に目が覚めて夢遊病的にメモに走り書きしたことがある。「時間と言葉と心についての覚書」ってタイトルで。時間の中に霧散してしまう前に、私も武器を手に取らねば…!!
その覚書を、ズダダダとnoteに書き出した。
読みやすいように図を入れたり、例えを挙げたりすべきなんだろうけど、まずは全部出してしまおう、ってことで抽象的なまま排泄。
いつか整理するかなぁ。
ここにも本文を載せておく。
↓↓↓↓
「一人称」から世界は始まる。
それは語り手の目を通して見た景色。
世界そのものはそれ以前からあったのだけれど、そこに世界がある、とはじめて意識されたまなざしが「一人称」だったということ。
お次は「二人称」で、と言いたいところだけれども、これは「一人称」のまなざしに含まれる。ただ語り手が変わったことでその景色が変わった、というだけで、画角は同じなのだから。
「三人称」のまなざしによって
世界の景色が鳥瞰図の高さにまで一気に飛躍する。
その高跳び大ジャンプの足がかりになったのが、コトバという能力の進化だった。もしかしたら大ジャンプがきっかけでコトバが進化したのかもしれないけど、どちらにせよ、この景色の変化はコトバの存在と複雑に絡み合っている。
『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリは、コトバの能力の進化が「認知革命」を起こした、と説いた。人類はコトバをつかって「ウソ」をつけるようになった。
目の前にある現実、身体と環境で伝達・共有する情報だけじゃなく、今ココから切り離された視点、空間、時間についての情報を取り扱えるようになった。
一人称や二人称のまなざしから離れた、三人称の新しい視点で世界に触れることができるようになった。
それは事実かどうかに関わらず、正確さの精度に関わらず、ここではないどこか。フィクション、虚構、ウソの世界、違う層の現実をコトバが描き出す。
そうして、世界は、2層化した。
別の層を重ねた(1層目の視点+2層目の視点)分、厚みが出来た。
三人称から見た世界の景色、「鳥瞰図的なイメージ」を描けるようになる頃ってのは、幼児の言語発達の最終段階にあたるらしい。言語によって「論理的な理解」ができるようになる段階。
言葉による論理的な理解
ってのは、コトバとコトバを繋ぐ言葉(接続語)を使えるってこと。
「そうして」「だから」「でも」「それなのに」「また」みたいな、文と文を繋ぐ言葉。ただ事実が並べているだけじゃなく、そこに「意味」が付与される。その言葉は目の前の世界に、経験に、出来事に、意味を与える。
ものごとに因果関係を見出すようになる。
もちろんそれ以前の世界にも因果関係はあった。でもそれは、ただ出来事が連なっているだけ、連続して起こる反応でしかなかった。そこに「意味」を見出すコトバが生まれた、ってのは、大きな変化なのだ。
反応や出来事のビフォアアフターを追うだけじゃなく、理由を問うようになる。どうやって?だけじゃなく、なぜ?を問うようになった。
「因果関係」に「意味」を介入させるコトバ
それこそフィクションの極み、2層目の現実が1層目の現実に食い込む要素なんじゃないか。だって、「だから」「しかし」というブツは目の前の現実には実際に存在しない。
それは語り手の頭の中、ここではないどこかにある、思考の働きや意味の動きを表すコトバ。そしてそのコトバは、思考の流れを操作する転轍機にもなる。
接続後は話し手の内側(今ここ目の前にある現実とは違う、ヴァーチャル空間)にある思考、世界の捉え方を表す。それは聞き手の見る世界にも影響を与える。話し手と聞き手は、同じ第2層の現実、仮想空間を共有する。
コトバによるフィクションで共同体の結びつきが強くなって、そのパワーで他の人類を圧倒した、ってのがユヴァル・ノア・ハラリのイメージ。
第1層を俯瞰できる第2層の世界の視点を手に入れた人類は、第1層しか見えないグループを制圧できた。
果たして認知革命が人類の淘汰のきっかけだったかどうか?は、ここでは触れないけども。この、「因果関係+意味」が精神面に革命的な変化を起こしたってことについてもう少し。
因果関係+意味=ストーリー
このコトバの使い方は、「ただ現実を現実のままに理解する」こととは違う。「意味」を付与するということは、世界に解釈が挟まれるということ。
おのれの解釈を以て世界を解釈するということは、そこに「心」という存在が浮かび上がったということ。
それまでも感情とか意思はあったことはあっただろうけど、ここで言う「心」はもうちょっと意識的な意志、というか、自我、というか。
能楽師の安田登先生は、「因果関係」を基盤にした時間感覚が人間の「心」を生じさせたんじゃないか、と言っていた。因果関係によって過去と未来を把握できるようになったから、過去の後悔や未来への不安が生まれたんじゃないか、と。
私は「因果関係による時間感覚」に「意味の付与」も重要ポイントとして付け加えたいんだけど、「時間感覚」の変化も忘れてはいけない要素。これについてはひとまず後ほど。
見えている世界の変化
最初は目の前の具体的な現実について、一人称のまなざしで得た情報について、伝えるだけだったコトバ。鳴き声とか、ボディランゲージのような、具体的で物理的な情報の伝達と共有。
より複雑なシステム、安定した構造を発達させることで、コトバが取り扱う情報の守備範囲がぐんと大きくなった。
一人称や二人称の世界から、三人称の世界へとコトバの描く景色がぐんと広がった。そして具体的現実と切り離された、コトバによる現実(フィクション、虚構、ウソ、仮想現実)を創れるようになった。
先に挙げた接続語のような、コトバの世界を組み立てるコトバによるパーツによって、複数の現実(第1層と第2層どの組み合わせでも)を操作することができるようになった。
箱の中に入っている人で例えてみよう。
ベルトコンベアーで運ばれている箱。その人は箱の中から、景色の変化や他の箱の動きを眺めている。
ある時その人は箱の外に出て、自分の箱が運ばれている様子を見た。他の箱も同じように動いている。箱と箱が交差したり、積み上げられたり、動きのパターンのようなものがあると発見する。
その人は箱の動きに「意味」を見出すようになった。
その動きには原因がある。それぞれの箱の動きには、その動きをとる理由がある。その理由はなにか?なぜ、こうなるのか?
その人は箱やベルトコンベアのあちこちに印をつける。箱とベルトコンベアの世界には存在しなかった、印の世界があちこちに生まれる。
その人の他にも、箱から出て印を描く人達がいる。その人達は箱の中からお互いに働きかけることもできたし、箱の外にある印の世界でやりとりをすることもできるようになった。
箱から出られない人たちには、その印の世界は見えない。
「今ココ」という現実時間と現実空間から
箱の中から見る景色は、いつも「今ココ」。覚えていられる範囲で、今に至った過去やこれから見えてきそうな未来の予測も立てられただろうけど。
箱から出た人たちは、それぞれいろんな箱から見た景色を組み合わせて、ひとつの大きな別の現実を構築できるようになった。生の現実とは別に、箱の外で共有する現実。
当然、箱の外に繰り広げられる第2の現実は、具体的な経験や個々の保持できる記憶の範囲を凌駕する。空間的にも、時間的にも。
空間的に今ココから離れる。
箱の外から見た世界、鳥瞰図を描けるようになる。全体の中で「ココ」という位置取りを把握できるということ。
時間的に今ココから離れる。
因果関係に意味を結びつけることで、ただの連続する出来事じゃなくて、直線(あるいは円環)上の一点として「今」という時間を俯瞰できるということ。
この因果関係と意味の結びつきが、「心」という働きを生み出した。
解釈を挟んだ世界を感受すること、その働きが「心」。
ランダムな線画の世界を、特定の輪郭の組み合わせ(意味の繋がり)でトレースして、彩りを加えた。その最終的に描かれた彩りある世界が、「心」。
コトバは心の生みの親
そう思うと、心はコトバの成長の先にある。情や本能という意味合いで語られる「心」は、理性や論理のツールである「コトバ」と対照的なものだ、ってのが一般的なイメージだけど。
ここで言う「心」という語は、ざっくり「世界に彩りを加える感覚」みたいに捉えてほしい。なにかしらの意味合いが含まれる世界、それを映し出す(感じる/反応する)もの。
ヨガや瞑想で言う、思考から解き放たれて今ココに集中せよ、ってのはコトバによる心の色彩、トレースされた世界の輪郭をリセットしようというココロミ。
それによって、絶対Xでしかない、と思っていた輪郭が、後づけのトレース線でしかないと気付いたりする。塗りつぶしていた世界の向こうに、別の世界が見えてきたりする。すっきりしたり、新しい可能性を発見したり、そういうイイコトがある。
なにより、時間から解放される。
今ココという瞬間にだけ集中する。過去や未来という今と切り離された仮想現実から戻ってくる。箱の外に創り出した第2層の世界が豊かになりすぎて、第1層の箱の中の世界に帰る方法を忘れた人が多い。だから最近は、こうした取り組みが重要になっている。
過去や未来という、今と切り離された時間感覚と、そこから生じる心は何が問題なのか。「時間感覚の変化が心を生んだ」と言う安田先生は、過去への後悔や未来への不安、を挙げていた。
私は、人が世界に「意味を求めるようになったこと」に根本原因があるんじゃないかと考える。
どうして?
時間を俯瞰して見ると、いのちの「有限性」が際立つ。
生まれて、死ぬ。箱の中から見る世界は、生きている時間だけが全て。一人称の世界は、生きているから語れるわけで、生前も死後もその世界には存在しない。
箱の外に出たら、はじまりとおわりが見える。
世界がただ出来事の連続、具体的な事実の連続、単純な因果関係が発生する世界でしかなければ、死は(もちろん全力で避けようとするけど)、その時が来れば受け入れるしかないもの。
ただ、それは、現実のひとつの出来事として起こるもの。
でも、因果関係に「意味」を結びつけて世界を組み立てるようになった人類は、「ただ起こるから、起こる」じゃあ気がすまなくなる。
どうして、いのちはいつかおわるの?
いつかおわるのなら、どうしてはじまるの?
わたしたちはなんのために、生まれてきたの?
はじまっておわるこのいのちに、どんな意味があるの?
そしていろんな「意味」が編み出され、信仰が生まれ、哲学が興り、同じ意味を共有する共同体、国家や宗教が体系立てられた。
この問いは、人間に心がある限り、今も響き続けている。それが心の作用、心の音なのだから。哲学や宗教、占いや心理学、芸術や日々の営みの中に、その音はいつも響いている。
有限の時間
そして問うことができるのは、こうして心の音を響かせているのは、いのちあるうちだけなのだ。はじまりがあって、おわりがある、この限られた時間の範囲にいのちはある。
井上ひさし先生は、「時間」を宇宙最大の王、と呼んだ。その王に対抗すべく、人はコトバ(書き言葉)という唯一の武器を使って闘う。
コトバによって、人はおわりの向こう側、未来へと繋がることができる。コトバによって、生身では出会うことのなかった過去のいのちを、繋ぎ止めることができる。
コトバだけが、宇宙最大の王「時間」に一矢報いることができるのだ。
でも考えてみれば、その「時間」を生み出したのはなんだったか。
時間そのものという物理的な存在の発生原因は?ということじゃなく。
時間はそもそも物理的なものじゃないから、物理学界隈で「時間は存在しない」と言われているわけだし。それは驚くに値する仮説でもなんでもなく、時間(過去、今、未来、という結び付き)は第2層の現実につけた「印」なわけで、生の物理的世界に属するものじゃないんだから当然のこと。
箱から出た人が構築した仮想現実、意味づけされた因果関係、約束事のようなもの。
箱を外側から眺めたとき、はじめてそこに時間が見える。はじまりとおわりが、動く箱同士の関係が見える。「意味付けされた因果関係」を、世界の動きに意味を見出すものを、なんと呼んでいたか?
「心」です。
心は「働き」であって、物理的な存在じゃない。
例えば「演奏」ってコトバは、なにか音が出る楽器があって、それを操る人がいて、ひとまとまりのメロディを奏でることでしょ。「演奏」というブツがあるわけじゃない。物理学者なら「演奏は存在しない」と言うかもしれない。
時間は、第2層の現実世界で自覚された過去、現在、未来の因果関係のこと。
それはぶつぎりの「今」の連続じゃなく、ひとつながりの「時間」であると印でつなげられたもの。
目の前にある現実世界の今だけではなく、他者が共有する情報(第2層の仮想現実)も組み合わせて、無数にある「今」をひとつらなりのものとして意味づけしたのが、「時間」。
第2層の空間で、物事や出来事の意味づけを行うことを「心」という。
てことは、「時間」は「心」の働きで生まれた作品のひとつってこと。
ミヒャエル・エンデの時間
時間と心の関係といえば、ミヒャエル・エンデの『モモ』が頭に浮かぶ。彼は「時間を感じる感覚器官が心」だと言う。においを鼻で、音を耳で感じるように、人は時間を心で感じるのだ、と。
心が時間を感知する、ってのは同じなんだけど、ここで私が言っていることとは少しニュアンスが違う。心は時間の受信器というより、発振器に近いんじゃないか、と思うから。
心の働きが時間という器を作り出す。その時間の器のなかに、心がある。
時間を受信する心。その時間という発信源が心。
永遠にぐるぐる回る、円環構造・・・
宇宙最大の王「時間」に支配される有限のいのち。しかしその王を生み出したのはいのちだった。自分を産んだ親を産んだのは、自分だった。
円環する永遠のあわせ鏡
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編に、ある魔術師のお話がある。その魔術師は夢の中で想像の息子を創り出す。そして息子に魔術師の訓練を施し、自分と同じように創造の魔術も教える。全てを教えた魔術師は、息子自身が夢の中で生まれた存在だと分からないように、息子の記憶を消す。息子は創造の魔術を発揮する使命を果たすべく、旅に出る……。
完全にネタバレ全開で言っちゃうけど、その魔術師は最後にハッと気付いてしまうんだよね。自分もまた、誰かの夢の中に創られた存在だということに。
夢の中で見た夢、その夢の中で見た夢、その夢の中の、そのまた夢の中の……そんな円環に、私たちの「時間」は似ている。
時間から生まれたコトバ、コトバから生まれた心。その心から、時間は生み出される。そして心は時間の支配を逃れようと、コトバという武器を手に取る。
ギリシャ神話の時間
時間を象徴する神クロノスは、天の神ウラノスと大地の神ガイアから生まれた。ウラノスとガイアは天地まま剥き出しの「今ココ」の世界、第1層の現実。そこから生まれた神クロノスは第2層の現実、時間(過去/現在/未来)がある世界。
クロノスから、たくさんの神々が生まれた。
これは、「心」の働きで世界に彩りがくわえられた様子なんじゃないかな。
囲炉裏という共同体をつなげる、女神ヘスティア。
満足感や幸福感に豊かさという意味を見出す、デメテル。
家族や子どもという結び付きを大切にする、ヘラ。
有限の時間という感覚から生まれた死生観、ハデス。
そして海や大自然への畏怖、ポセイドン。
さてさて、最後に生まれたのがおなじみ、人類を統べる創造神、ゼウスなのです。人類の創造力、世界に対する意味付けの象徴。
ニンゲンらしさの結晶、と言ってもいいかもしれない。
神話では、そのゼウスが父クロノスを打ち倒す。時間から生み出された人類の創造力は、時間に対抗し、そして打ち勝った。
ゼウスの使いが伝令の神「ヘルメス」なのも、付け加えておく。ヘルメスは情報を運ぶコトバの働き。泥棒の神ってのも、おもしろいところ。コトバの世界、第2層の現実は虚構(ウソ)の世界だからね。
第2層その先の世界「四人称」のまなざし
三人称の世界、今ココの現実から時間的にも空間的にも切り離された仮想現実。情報空間、って言ってもいいかもしれない。
私たちの社会は、この第2層目の現実が飽和した状態にある。
するとどうなるか。
かつて箱の外に歩み出たのと同じように、私たちはたぶん、次の層に移行する。しない人たちもいるだろうけど、おそらく次の世代に引き継がれるのは、サピエンスがそうだったように、第3層目の現実を持つグループの世界になる。
その世界はきっと、「四人称」のまなざしが描く景色なんだと思う。
第1層目の現実=目で見た世界から
第2層目の現実=その世界に印をつけて、印を組み合わせ構築した世界
そして
第3層目の現実=その構築されたそれぞれの世界を、別の方法で体系立てて組み立てた世界……
その別の方法ってやつは、第1層〜第2層の現実に生きる私にはまだ見えていないのだけど。
いったん上の層まで行けば、下の層はよく見える。
下の層に降りられなくなったら、具合は良くない。ヨガや瞑想で心と体を整える必要が出てくるように。上に行けばいいってわけじゃないことも、覚えておこう。
第1層の世界が「真実」で「正解」なわけでも、第2層の現実が「間違っている」「ウソ」ってわけじゃない。
第2層の現実が虚構、フィクション、ウソの世界だっていうのは、第1層の現実をベースにして、そこと比較して言い表しているだけだから。
私は第1層の、みちみちた いのちの景色も好きだし、第2層のコトバと心が魅せてくれる魔術の景色も大好き。
そしてこれから見える新しい景色を、私も見てみたい。
その世界を生み出す親である私たちは、きっとその世界から子どもとして産み落とされる。ぐるぐると回る円環の中で、世界はかくもうつくしい。
ちょっと休憩が必要なすべての人に捧ぐ
ちょっと休憩が必要なすべての人に捧ぐ
(読み始めの頃に書いていたメモ↓)
冒頭を読み始めたところ。きっと、好き。
海外のSFでよくある「ロボットに意志がめばえた」未来のハナシなんだけど、意思を持ったロボットが自然界に去っていったって前提世界がオモシロイ。
読後、やっぱりおもしろかった!!新しく感じた、好きな雰囲気♡
こんなのどかで癒されるSFがあるのか…!もしニンゲン社会が、今と全く違う価値観をもとにテクノロジーを存分に活かしたら…そんな世界観に心トキメク。
かといってただの、ほのぼのストーリーかって言うとそうではない。
私の「使命」はなんだ、なんのために生きてるのか、自分に何ができるのか、どうやって社会に、世界に貢献できるんだろう…そんな思いが頭をかすめたことがある人に、きっと刺さる物語。
あ、そうか。
第2章のはじまりに書いてあったのは、このことか。
自分がどこにむかっているのかわからない人々に捧ぐ
SFでもファンタジーでも相棒と旅するロードムービーでもなければ、そのどの要素も楽しめる物語。アニメ映画っぽいタイトル、テーマだけど、小説だからこそ味わえる気持ちよさがある。
構成要素を足しあわせただけではない、なにか
主人公デックス(そして読者のワレワレ)は、ロボットのモスキャップに出会ってそのキャラの強さ(笑)に驚く。
ロボットはもっと数字と論理だけでできている、精密で組織化されたものだと思っていた、と言うデックスに対して
「ワタシは金属と数字でできています。アナタは水と遺伝子でできています。でもワタシもアナタもそんなものだけではありません。その、ワタシたちの構成材料からできるそれ以上のものが何か、定義することはできません」
と自分の知覚について述べるモスキャップ。
ひとつひとつの構成要素を足し合わせただけじゃない、大きなまとまりから生まれるひとまとまりの存在、意味。おおもとの核だとか、パーツだとかに還元できない何か。
たしかにいのちってのは、パーツに還元できないまとまりと、そのまとまりから生まれる「意味」(これを意思、とも言えそうだ)で出来てるもんね。
生態系のパラドックスについて
このストーリーは、人類のテクノロジーが自然と共存する、いわゆるサステナビリティを軸に発展した社会を舞台にしている。
ロボットは森で暮らすことを選び、ニンゲンとたもとを分かつ。
そんな大転換を経て、何世代も経って・・・
モスキャップはロボット代表として、ニンゲンのデックスに出会い行動を伴にする。「いまのニンゲンたちの暮らし、社会がどう変わったのか」を知るために。
大自然で生きることを選んだロボットと、自然と折り合いをつけて生きることを選んだニンゲン。
デックスともスキャップのやりとりを通して、自然や生態系、周囲を取り巻く世界について、その世界に対する態度について、たくさんの視点からのぞけるのがすっごくおもしろい。
例えば自然の景色を眺めてその美しさに感嘆するデックスに、モスキャップは言う。
「きれいです。死にゆくものは往々にしてきれいなものです」
デックスは片方の眉を上げた。「その言い方はちょっとぞっとする」
「そう思いますか?」モスキャップは驚いていた。
「なるほど。私はそうは思いません」ロボットは近くに生えているやわらかなシダに手をふれ、毛皮をなでるようにその葉をなでた。
「ワタシは廃れかかっているものを見守れるだけの運に恵まれていることを美しいと思います」
ニンゲンが生態系に介入して失敗した例を挙げて、生態系のパラドックスにも触れる。
どの生き物も、より快適な、安全で暮らしやすい状態を求める。それは本能なのだから。でも全体としての生態系は、それぞれの生き物たちが全滅しないように抑制をきかせることを求める。
個々の構成員たちが暴走しないように抑制をきかせるひとつが、「恐怖」という感情。
生き物は、「恐怖」をなんとしてでも避けようとする。
ニンゲン社会は、ものごとを抑制するために、今も「恐怖」のシステムに頼っている。
成熟した宗教、信仰
主人公デックスはお坊さん(シスターでも坊主でもなく、シブリング※ってのが未来的!)なんだけど、デックスのふるまいや思想を通して、この世界の価値観、宗教、信仰意識がわかる。
※兄弟姉妹、性別の区分けがない呼び方SIBLING
その宗教観が、またイイんだなぁ。
擬人化された神でも、依存的な支配構造でもなく、偶像崇拝ではなく抽象的なものを抽象的なものとして落とし込める精神性の高さ。。。
「神々って……そういうものじゃない。子ども神は親神の法を破ることができない。彼らは介入するのではなく、インスピレーションを与えてくれるの。
変化や幸運や慰めがほしいなら、わたしたちは自分でそれを創り出さなきゃならない」
成熟した世界と、豊かな社会のなかで主人公が抱く葛藤
助け合い、支え合うことを中心に発展発達した世界で・・・
私一人が好き勝手なことをするわけにはいかない、自分の才能を活かして社会に還元しなければいけない、自分のいのちは、とりくむべき使命にそそがなければ・・・
幸せなはずなのに、なに不自由ないのに、日々の暮らしは楽しいものなのに、真綿で首を絞められるような息苦しさはなんだろう。
新しい方向に舵を切ったニンゲンたちが「必要としているものはなにか」を聞き取り調査するモスキャップは、ニンゲンたちが「使命」に固執することに疑問を抱く。
「使命」を巡るデックスとモスキャップのやりとりが、すごくよかった。
「それならどうして、アナタがたはそんなに使命をもつことに固執するんですか?使命を見つけようと必死になり、それがないとみじめだと思うんですか?」
「アナタは動物なんです、シブリング・デックス。
そして動物は使命なんて持っていない。
使命をもつ生物なんていないんです。
世界は単純にそういうものなのです。
アナタがほかの人のためになることをやりたいというのなら、けっこうなことです!いいことです!ワタシもそうです!
残りの日々をフロストフロッグと一緒に洞窟に這いこんで石筍を見てすごしたいとワタシが思ったなら、それもたいへんけっこう。
アナタはずっと、なぜ自分の仕事はじゅうぶんじゃないのか問いつづけていますが、それにどう答えていいかワタシにはわかりません。
なぜならこの世界に存在しているというだけでじゅうぶん驚嘆すべきことだからです。アナタはそれを正当化する必要はありません、むしろ誇ってください。
アナタは生きているだけで許されているんです。
ほとんどすべての動物がそうです」
モスキャップの言い分もわかるけど、ニンゲンはそれだけじゃだめなんだよ、とデックス。ただ生きているだけじゃダメ。肉体的に必要なもの、欲求のほかにもいろいろとやりたいことや大志がある、それがニンゲンなんだ、って。
モスキャップたちロボットにも大志ややりたいこと、生存し続ける以上の欲求はある。違うのは、そのために自分を傷つけたりしない、ってこと。
ここではデックスが実際に怪我をするような無謀なチャレンジをしたことを指しているんだけど、そうじゃなくても、わたしたちは自分を傷つけてまでなにか(使命)のために自分を犠牲にしようとすること、ないだろうか。
宇宙は循環する。ニンゲンも他の動物や植物や宇宙に存在する構成員と同様に、また宇宙の一部として循環する。
今目の前にある世界、自分という存在、それは繰り返しリサイクルされる原子やエネルギーの、一時的にカタチをまとった存在。
(スピノザ的視点だね!!!)
モスキャップは、自分たちがそんな世界の構成員であること、そして自分がそういうものだと理解できることそのものが、驚嘆すべきことじゃないか、という。
デックスだって、もちろんわかっている。
頭では、知識では。でも、だからこそ、自分の存在が「今このときだけ」のものであることが虚しく、怖くなる時がある、という。
(ここは、ハイデガー的視点だな!!)
「私にあるのは今このときだけ、そしてどこかの時点でわたしはただ終わるんだよ、いつそうなるかもわからない。
そしてーもし今回の生を何かのために使わなければ、そして絶対的にすばらしいものを作らなければ、わたしはなにか重要なものをむだにすることになるんだよ」
いのちをムダにしたくない、と言っちゃうと安っぽい言い方だけど。。。
満たされた世界で生きるからこそ、焦りとか責任感に悩むのかもしれない。
この物語ではロボットは永続する存在であることを辞めて、世代交代をする一種の生物のような生き方をしている。ロボットは永遠に生きることもできたのに、それを選択しなかった。
モスキャップは第一世代のロボットじゃないから、その選択には直接関わっていないとはいえ、それについてどう思うのかと問われる。
この「限りある時間」に生きるいのち、人生が、もしかしたら「無意味」なのかもしれない、そんな考えを受け入れられるのか、と。
これね!!この悩みを(悩みだと自覚せずに)持っている人をよく見るよ!!!占星術に関わってきたからだと思うけど。
「使命」を求める、人生の「意味(目的)」を求める、「前世」のストーリーやより大きな存在からの「ミッション」を求める。
自分の行動、選択は、大いなる(いわゆる上の次元の)意図によって導かれている
という思想。その思想自体は否定しないけど、それを「求める」(そうじゃないといやだ!そうであるはずだ!)ことに、私はいつも首を傾げたくなる。
そうであってもいいし、そうじゃなくてもいい。
目的があったとしてもなかったとしても、それは私が感知すべきことでも信じるべきことでもない、と思う。それを信じるかどうか、人生の仕組みや意味を把握しているかどうかは、実際に生きていくうえで重きを置くものではないと思っている。
私はモスキャップ側の意見に近いんだろうな。
「それは、何があろうとワタシはすばらしいとわかっているからです」
その言い方には傲岸不遜なところもなければ、浮ついたり軽率だったりという感じもいっさいなく、単なる認識、単純な事実を明かしたというだけに聞こえた。
モスキャップ(ロボット)のためらい
物語終盤で、モスキャップは故障する。それは小さなパーツで、取り替え可能なものだった。壊れたパーツを交換するかどうか(放っておけば寿命は短くなる)。
テクノロジーで身体を補完することに慣れているわれわれニンゲンには、「え、そんなに悩むポイントなの!」ってポイントがおもしろかった。
ちょうど先月読んだこの本も思い浮かべながら。
「アナタはアナタの身体なんですか、それともアナタの身体でないんですか?」
混乱するモスキャップに、その両方で、そのどちらでもない、と答えるデックス。
「それでは……アナタの身体はアナタであると同時にアナタではない」
「では、身体と自己のあいだのどこに線を引くんですか?」
テクノロジーがどんどん発展していくワレワレ読者の現実世界でも、「ワタシという存在の境界線」は考え直すべきテーマなんだ。
自然の描写、人々の関わり、悩みに向き合う様子に癒やされる
うまいこと管理/共存した「エコ」な暮らしぶりの描写が、ま〜癒やされるのよね。
ワゴンでキャンプする様子とか、車内にたくさんストックされたハーブやお茶、調合の様子、訪れる村で、お客さんたちにあわせたブレンドのお茶を出してる様子も、悩みを聞いてあげて、ふぅーっと緊張が抜けていく様子も、癒やされる。
「疲れた理由なんてなくてもいい。
休息や安らぎを”勝ち取る”必要はない。
あなたはただそこにいるだけでいいんだよって。
どこに行ってもそう言ってた」
それはデックスの信仰の核心で、本心でもある。
だけど・・・
「でもそれが本当だとは思えない。
ほかのみんなにとっては本当のように思えるけど、わたしにはそうじゃないの。
自分はそれ以上のことをしなければならないように感じてしまう。
それ以上のことをしなければならないように感じてしまう。
それ以上のことをする責任があるように」
全くもって違う世界観を持つデックスともスキャップが、同じ問いの答えを求めて旅をする。
ロボットとわたしの不思議な旅。
ふわふわとしたファンタジックな不思議じゃあなく。わけのわからない幻想的な不思議でもなく。理屈が通らない不思議でもまったくなく。
そうだ、WONDERワンダーとしての不思議!
好奇心、喜び、驚き、そして不安。そんなものがこめられた「不思議」センス・オブ・ワンダーを感じる物語。
年末年始のバリ島旅行、行きと帰りの飛行機で読めたのも、よかった。
改めて思ったけど・・・
本ってさ、印字されている中身はみんな共通だけど、読書の背景って様々だよね。その本を手に取った経緯とか、さらにそのうしろにあるワタシのこと、ワタシの中で見つけた動き、どんな場所でどんなふうに、どんな読み方をしたのか。
読んだあとの「感想」とか「意見」もおもしろいけど、そういう「背景」の違いについて聞いてもオモシロイだろうな。
そういう「本に印字された内容」以外にも世界を開いた読書会を・・・って去年の後半に構想していたけれども(笑)いやぁ、余力足りず、一旦保留になっております。
↓読書会をまた企画しようか、とおしりを持ち上げたときのブログ
そしてまた、重たいおしりはドスン!!
しかし↑の記事を読み返してみたら、「そんなことにも悩んでいたなぁ!!」と新鮮な気持ちになった。
「好きなことに没頭する」エネルギーの回復力、すげえよ。
子育てママズは、エネルギー(時間)がなくてできない、じゃなくて、エネルギーを復活させて時間を生み出すために、好きなことすべきだと思う。
奇病カンブリア爆発
使っていなかったインスタアカウントを、ちょっとした読書記録用に活用することにした。
白い紙の黒いインクで、どうしてこんな色鮮やかな世界が描けるんだろう。異形の不気味さ、美しさ、「正常なニンゲン」のおぞましさと、ピュアな狂気。
澁澤龍彦の『高丘親王航海記』とか梨木香歩の『家守奇譚』みたいな、現実と幻の境界線がわからなくなってクラクラしちゃう世界観が好きなら、これもきっと好き。
おそろしい場面であっても、血生臭さとかグロさ気持ち悪さは感じない。遠巻きに夢越しに眺めているような、静かな読み心地。
「あなたは魔法使い?」
「さあ、魔法とは何だろうね。人は言葉を使うが、言葉はすべて嘘だ。だが言葉はすべて真実にならざるを得ない。それを魔法と呼ぶならば」
ニンゲンのカンブリア爆発みたいだな、と様々な奇病を読みながら思う。めちゃくちゃに、混ざりあい変化し合いながら、うごめいてゆく異形のいのち。








