本体990円の文庫本、シンガポール紀伊國屋で19.40ドル・・・
ほぼ、倍だぜ。でも、買っちゃったぜ。
ゲド戦記、西の果て年代記の作者、アーシュラ・K・ル=グウィンによる「物語論」!!
この文庫カバーの絵になってるの、『コモドっ!』に出てくる絵だね!!
長男がおちびだった頃、何回も何回も読んでってせがまれたお気に入りの本。本文中にこの絵本については触れてないけど、この絵、子どもの想像力とわくわくを詰め込んだ部屋の描写を表紙に選んだことに、読み終わってから改めて感動。
この人の、物語との向き合い方というか、コトバとの向き合い方、そんでもって世界との向き合い方が、私はひじょーーに好きなんだなぁ。
わたし自身の作品について言えば、それを善と悪の戦いと呼ぶ人がいるとしたら、なぜそんなふうに言うのかも、どうしてそういう言い方ができるのかも、わたしの理解を超えています。
わたしは戦闘や戦争については、まったく書いていませんから。わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないことです。
(年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。
わけのわからないこの世の中で、子どもやティーンエイジャーは、確固とした道徳的足場を見つけようともがきます。彼らは勝つ側にいると感じたいのです。少なくともそのチームの一員だと思いたいのです。
陰謀論的な思想にのめり込むオトナにあてはまるよねぇ。不都合な事実の裏には、「悪」がいる。そう信じないと、足場がぐらついて不安でしょうがないから。なにかしらの「わかりやすい理由付け」を求めるのは、まだ心が成熟していないから。
彼らにとってヒロイック・ファンタジーは、倫理的な明快さを感じさせてくれるものかもしれません。しかし、(疑われることのない)善と(検証されることのない)悪との間の戦いと称されるものは、物事を明快にするかわりに、ぼやけさせます。
それは、暴力についての単なる言い訳にしかなりません。それは、現実の世界の侵略戦争と同じくらい、浅はかで無益で卑劣なものです。
ファンタジーが単なる逃避や願望の充足に成り下がったり、空虚なヒロイズムや無思慮な暴力への耽溺に陥ったりすることがときにあるとしても、ファンタジーが定義からしてそういうものだというわけではないのです。
想像力による文学は、今もなお、ヒロイズムとは何かを問いかけ、権力の源を検証し、道徳的によりよい選択肢を提供しつづけています。想像力は倫理について考えるのに役に立ちます。
戦いのほかにたくさんの比喩があり、戦争のほかにたくさんの選択肢があります。そればかりか、適切なことをする方法のほとんどは、誰かを殺すことを含んでいません。ファンタジーは、そういうほかの道について考えるのが得意です。
そのことをこそ、ファンタジーについての新しい前提にしませんか。
映画や漫画は、やっぱり暴力で敵(悪)をやっつけるストーリーや演出がウケるんだけどね!!それがなければ、答えじゃなく問いが提示させるような物語には、途端に「わからない」って評価(低評価)が下される。
『君たちはどう生きるか』もその手の物語なんじゃないかな。あれは、タイトルがそうであるように、ひとつの明快な「なにが善でなにが倒されるべき悪か」って答えを提示する物語じゃなく、「問い」を中心にした物語だから。
わたしたちの世界はものすごい勢いで均質化しており、今やこの地図は―そしていかなる地図も破壊されてしまった。地図上のすべての場所がほかのすべての場所とそっくりになり、余白は残っていない。知られていない国はない。どのブロックにもハンバーガーショップとコーヒーショップがあり、それが際限なくくり返される。
シンガポールはあちこちにショッピングモールがあるんだけど、どれも中身は一緒だなぁ!!ってどこに行っても思う。先進的都市のイメージって、こういう「どこも同じ感」を指してるのかな。
そんでもって、誰もが他の人が行った店、他の人がとった行動をなぞりたがる。これは日本人駐在妻に限ったハナシなのか?わかんないけど。行く店、着る服、習い事、みんながみんなを真似してる。
ファンタジーの紡ぎ手たちはどうやら、通常の現実を否定したり、回避したりすることによって、強烈で複製不可能な、その場所だけの知識によって構成される世界を復活させ、今、与えられているよりも大きな現実の存在を肯定し、それを探求しようと努めているようだ。
彼らが回復させようとしている感覚、取り戻そうとしている知識は、ほかの人たちがほかの種類の生活を送っているかもしれないどこかほかの場所が、どこであるにせよ、どこかにあるというものだ。
その感覚が、均質化と埋め尽くされた情報の地図のなかにしぼんでしまってるからね。今こことは違う別の現実、世界の「余白」を肯定する姿勢、それを拒絶せずに関心を持つ姿勢といいますか。
アーシュラ・K・ル=グウィンはファンタジーが神話的な役割を果たす、と考える。
神話の一般的な目的は、わたしたちが何者であるか、民族として、どういうものであるかを教えるものだ。神話物語は、わたしたちのコミュニティーとわたしたちの責任を提示する。
私はなぜか、やたら「前世」やら「魂のルーツ(宇宙から地球に転生?)」を持ち出したがる人に出会いがちなんだけど。。。それってやっぱり、現代社会には「拠り所となる神話」がないからなんだなぁ、とさみしく思う。
ちょっと昔だと宗教にそれを求めていたんだけど、最近は大きなシステム支配よりも個別の特別感ってのがウケるみたいで、自分のルーツをそういう細分化された物語(占いも、そう)に求める人が多い印象。
わたしは何者で、どういういきさつでこの世に生をうけ、なにを目的にこのいのちを生きていくべきか。
まったくもって、人間らしい、素朴な疑問。
それを与えてくれる物語を、人は渇望する。
私はファンタジーや物語が大好き大好物なんだけど、すぐに「これは前世が」とか「私の魂の本質は」とか言い出されるとうんざりしちゃう。わかりやすい因果関係に安心したり、思考停止になる人は、正直好きなタイプじゃない。
一緒に話していて(というか、そういう人たちは一方的に情報を押し付けるだけで、こっちのハナシを聞くということがあんまりない)おもしろくないから。
未熟な人たちは、これは良い、これは悪いという道徳的確信を渇望し、要求します。このわかりにくい世の中で、ティーンエイジャーたちは確かな道徳的足場を求めてあがきます。彼らは自分が勝ち組にいると感じていたいのです。
アーシュラ・K・ル=グウィンにとってファンタジー(物語)は、善と悪の戦いを描くんじゃなく、善と悪の真の違いはなんなのかって問いに視点を導くもの。現実から逃避するものなんじゃなくて、今はない他の選択肢や可能性を含むより大きな現実を見るまなざし。
物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて物語が動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではない
「この物語で伝えたいメッセージは?」
これがいかに愚問か!!!
もしその物語を2,3の抽象的な言葉に縮小したり、簡単に要約できるなら、作家はなんでわざわざキャラクターや人間関係、風景、プロットを作る苦労をするわけ?とアーシュラ・K・ル=グウィンはビシッと切る。
物語は考えを隠すための箱なのか?裸の考えの見栄えをよくするためのきれいな服なのか?口に苦い考えを飲み込みやすくするための砂糖衣なのか?さあ、いい子だから口をおあけ。あんたのためになるものだよ。フィクションは装飾的な言葉遣いの中に、理性的な考えを隠していて、その考えこそが、究極の実体であり、フィクションの存在理由なのか?
フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは、物語を語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。
物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。
また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。
しかし、それはメッセージをもつ、ということと同じではない。
文学的な短編や長編の複雑な意味は、その物語そのものの言語に参加することによってのみ、理解可能だ。その複雑な意味をメッセージに翻訳したり、訓話に縮小したりすることは、もとの意味を歪め、裏切り、破壊する。
物語、例えば小説を読むときに、登場人物の目線にに入り込むことで見えてくる世界があるわけで。得られる感覚、意味があるわけで。
小説というものは、誰々が何々をしてどうなったというふうに要約してみたところで、あんまり意味はないものです。
登場人物たちと一緒になってその世界を生きて、夢中になって読んでいる間だけ存在している。そこが一番小説にとって大事なことです。
熱帯 (文春文庫)
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たとえばダンスや絵画、音楽が「要するに伝えたいのはこういうメッセージです」と要約できるんなら、その表現方法を取る必要はないわけで。言葉で掬いきれないナニカを表現しようと試みるのが芸術。物語もまた、同じ言葉という素材をつかってはいるけども、ひとつの芸術。
芸術はわたしたちを解放する。そして言葉の芸術は、わたしたちを言葉で言えるすべてを超えた高みに連れていくことができる。
わたしたちがおこなっている教育や書評や読書がこの自由、この解放を讃えるものであったらよいのにと思う。
学校の子どもたちが物語の中にメッセージを探すことを教えられる代わりに、本を開きながら、「ほら、新しい世界へのドアが開いた。わたしはそこで何を見つけられるかな」と考えるように教えられているなら、どんなによいだろう。
私、ファンタジーが大好き。
でもそれは中世を舞台にした、竜とか魔法とか剣が活躍する世界観が好きってわけじゃなくて。善と悪の戦いが好きってわけでもなくて。何が起こるんだ!って冒険は、たしかに好きだけども。
どうしても、ファンタジーは子どものものって「一般常識」があるじゃない。子供向けの、幼稚でナンセンス、もしくは教訓めいた物語。でも私の好きな物語はそういうんじゃなくて・・・
アーシュラ・K・ル=グウィンの〈西の果て年代記〉、ロイス・ローリーの〈ギヴァー〉、上橋菜穂子の〈守り人〉から〈鹿の王〉〈香君〉、小野不由美の〈十二国記〉!!
いろんな世界を、いろんなまなざしで旅して、傷ついて、喜びや悩みを分かち合って、ちょっぴり成長する。そんな経験ができるのがおもしろいんだよね。
物語以上に、「物語論」が好きなのかも。。と思う今日このごろ。
人はなぜ好きになり、嫌いになるのか。
他者の幸福を喜び、その一方で不幸も面白いのはなぜか。
なぜ人は 嫉み、うらやみ、出し抜きたいのか。
運、不運はなぜ誰もに等しく訪れてはくれぬのか。
なぜ人は損得にこだわり、奪い、殺し、戦をやめられぬのか。
その問いを、人々は小さき物語に、時には長大な物語に託してきた。
幾世代にもわたって少しずつ細部をつけ加え、あるいは削ぎ落としながら語り継いできたのだ。答えの出ぬ問いを発し続けてきた。
昔話は主人公か悪役かが大抵むごい目に合うし、神話は理不尽で不道徳。そうやってオトナの「今現在主流になっている、暗黙のルールや価値観」に沿って書き換えられ、避けられ、忘れられていく物語たち。
子ども達を敢えて危険な目に遭わせたり苦しませる必要はないけども、それを安心できる人の声を通して、安全な場所から、覗き見ることを許してくれるのが物語だった。
物語は、正義や悪、教訓やハウツーを伝える教材じゃないからね。
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ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
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価値観や立場が違う色んな登場人物に出会う。私はそれぞれの「世界」に、物語を通して出会う。誰か(たいていは主人公)に自分の目をシンクロさせることで他の世界を見る。それが物語の楽しいポイントなんだけど、実はもっとすごいのは、それを客観的に見る視点(本を読んでいる私)も同時に存在すること。読書って、物語って、実はものすごいことをやってのけてるんじゃないか!!?
ホモサピエンスの認知革命はフィクション(物語)の発生によるものだ、ってのがドシンと腑に落ちた。これはすごいことだ。
自分の肉体を通した自分の目と、物語の中に登場する複数の人の目と、その目を借りる自分の目を意識したもうひとつ上の層から眺める自分の目。
そういったものに対する「大人」たちの恐れ、野心、欲と権力の争い……
子供と大人とで同じ世界に生きていても見えてるものが違う。それをドキドキする物語、ワクワクする冒険、ほろっと胸打たれる愛のコトバで紡げるのが、スゴイ。
人間の心理を、世界の真理を、自然の叡智と、学びを、それと気付かないうちにダウンロードしてくれる。物語って、スゴイ。
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「物語」、それが自分の中で語り直されてゆく。
自分の内面を「自覚」して、外側に何を求めるのか「決断」する…「幼さ」と向き合い脱皮するプロセスを駆動する装置として、「物語」はずっとニンゲンと共にあったんだろうな。
そして、これからもあるんだと思う。
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