東のはてで西のはての年代記を読む(はて、はてとはての境目ははたして西なのか?東なのか?)
光は力だ。偉大な力だ。
われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。
だけど、光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。
光はそれ自体で存在するんだ。
太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。
そして太陽の光の中に、その日々の運行の中に、
四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。
たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。
だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、
光の場合とは違うんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。
だから、いろいろ出てきたとしても、
それはみんな目くらましにすぎないんだ。
実際にはありもしないものを呼び出すこと、
真の名を語ってそれを呼び出すことは、
ちっとやそっとではできないことで、
だからその術は決して軽々しく使ってはいけないんだよ。
ゲド戦記は少年が才能に目覚めて魔法使いに弟子入りして、なんやかんやあってすごい力を自分のチカラとして取り込むっちゅう、ファンタジー物語。ファンタジー、優れた子どもの物語の特徴は、「この本のテーマは〇〇です」とは絶対に明記しないこと。これは愛についてメッセージが込められています、とか「自分らしく生きる方法について考えさせる狙いがあります」とは絶対、絶対、書いていない。(訳者あとがきとかには書いてあるかもしれないけど)
不思議な世界で繰り広げられるドラマ、展開、魅力的な登場人物や感情の起伏にシンクロして楽しむのはもちろん、大人にはまた別の視点からも楽しめるのが、子どもの本。
※子供に気に入られるよう簡略化した刺激の強いデザインやキャラクターを「子ども向け」と捉えられているのなら、私の言う「子どもの本」は全く意味が違う。大人のモラルを「教える」ものも、違う。
ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
ゲド戦記を書いたアーシュラ・K.ル=グウィンの物語には「コトバ」に対する強い信念というか、逆に無力感というか、とにかく「コトバ」に全身全霊、命がけで向き合っているオーラがある。
どんな力も、すべてその発するところ、
行きつくところはひとつなんだと思う。
めぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも水も、
風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、
みんな、もとは同じなんだ。
わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、
まだ生まれていない子どもの真の名も、
みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大なことばの音節なんだ。
ほかには力はない。なまえもない。
ゲド戦記で出てくる「魔法」は「コトバ」の力を発揮した現象として描かれる。魔法が使えるというのは、真の名を知っていること。
でもね、正直ゲド戦記の物語はなんだか「あからさま」感があってあんまり・・・興奮するほど好きにはならなかったのよね。コトバに対するグウィンの信念にはすごく惹かれて、読み終わってすぐエッセイも借りちゃったんだけど。
でもね、この3部作は・・・めちゃめちゃドキドキした!!!!!!
ハラハラというか、主人公と一緒に不安になったり心かき乱されたりしながら読んだよ。第1巻、『ギフト』は「才能」や特別な能力にまつわる物語。
『ギフト』もそうだけど、やっぱり「コトバ」のチカラが背景にある。
『ヴォイス』は違う価値背景を持つふたつの民族の衝突が描かれているんだけど、私は話し言葉と書き言葉についてもちょっと考えた。
音で出来た合図としての「コトバ」と、書き残された「コトバ」、どっちが優れているとかイイとかワルイとか、そういうハナシではないのだけど。
『パワー』は、人が人に及ぼす「力」がストーリー核になっている。
価値観や立場が違う色んな登場人物に出会う。私はそれぞれの「世界」に、物語を通して出会う。誰か(たいていは主人公)に自分の目をシンクロさせることで他の世界を見る。それが物語の楽しいポイントなんだけど、実はもっとすごいのは、それを客観的に見る視点(本を読んでいる私)も同時に存在すること。読書って、物語って、実はものすごいことをやってのけてるんじゃないか!!?
ホモサピエンスの認知革命はフィクション(物語)の発生によるものだ、ってのがドシンと腑に落ちた。これはすごいことだ。
自分の肉体を通した自分の目と、物語の中に登場する複数の人の目と、その目を借りる自分の目を意識したもうひとつ上の層から眺める自分の目。
そのすごさを存分に味わえる3部作でした。