人の名前もそうだけど、モノの名前、出来事の名前、心の動きの名前、動きの名前、言葉は「名前」の集まりでできている。名詞とか動詞とか、そういう名前の名前もある。
そうやって名前をつけることで、もやっとしたただ在るだけの捉えどころのない世界にカタチをつくる。砂漠の砂粒をよりわけて砂像をつくるように、「わける」ことで「わかる」ものを生み出していった。
言葉の歴史、語源や文化のルーツってもんは、名づけの歴史なんじゃないだろうか!
カタチのあるもの⇐ことば⇒カタチのないもの
カタチがあるもの(主に物質的なもの)とカタチがないもの(精神的なもの)の相互関係は色んな分野で研究されている。
科学的な研究というものは、当然「言葉」の上でなされるわけだから、カタチがある側から見た視点での考察になる。反対側からの視点を求めようと思ったら、いったん言葉を排除しないといけない。
たぶん、ヨガとか座禅とか瞑想とか、身体からのアプローチになる。カタチのあるものに頼りきっている時代は特に、こういうカタチのないもの自体を否定・拒絶しがちなんだけど、最近は世間の目も割とおおらかな気がする。(どうかな?)
その中で「ことば」ってやつは、このふたつの世界を繋ぐものなだけあって色んな視点を与えてくれる。語学が好きな人は、「言語は世界の窓」の意味を体感してるんじゃないかな?単純に「世界=日本国外 を知るきっかけ」という意味以上に・・・。
言葉の持つインパクト、心への影響
そういう中間地点的な役割を持つ「言葉」だから、その影響力を「言霊」と言ったりする。ここでまた、名前のハナシに戻る。昔ばなしやおとぎ話でよく、「真の名」を暴くってストーリーがある。
鬼の名前を言い当てたら鬼を退治できた、みたいな。
これも名前には音の組み合わせや記号的な意味以上のナニカが込められてるって考え方があるからだよね。
名前の変化
最近歴史ミステリーにハマっていて、地域の伝承や伝説みたいなものを調べてるんだけど、「信仰対象の名前が変わる、無理やり変えられる」って現象が、もう、めちゃくちゃおもしろくって。
信仰ってまさに「カタチのないもの」を一生懸命「カタチのあるもの」に変換して自分たちに結び付けようっちゅう行為でしょ。
名づける行為っていうのは、なんでもなかったものを自分ごととして捉えるってこと。
自分ごととして捉える、ってもうめちゃめちゃ大事よ。脳の動き方が変わるから。語学にも大いに生かすべき人間の特性。
んで、その「信仰対象の名前が変わる、無理やり変えられる」って現象なんだけど。信仰心ってのは時間も空間も超えて人類共通の心の動きなんだよね。たぶん、たぶんだけど、人間は本能的に「カタチのある世界⇔カタチのない世界」のバランスをとろうとするんじゃないかしら。揺れながら。
色んな信仰、宗教、政治の思惑が絡んでくるテーマではあるけど、私的には「真実は何教にあった!!」「何人こそが世界のルーツ、支配者なのだ!!」なんてこと全く興味がなくて。それは、ほんと、どーでもいい。
名前の変化、言葉の変化をさかのぼりながら、その時に生きた人が何に心を震わせて、何を願って、結果としてどんなカタチが残っているのか。そして消えてしまったのか。そこにロマンを感じるわけです。
まぁ、興味ある人は一緒に星巡りのミステリーツアーを楽しみましょう、ってハナシ(笑) あ、「星信仰」を軸に歴史と言葉をチョーサしているから「星巡り」ね。
ついでに(また)占星術のハナシ
名づけと言えば私のライフワークである占星術。これも、記号やシンボルを言葉で定義することで自分ごととして脳にインプットする⇒行動を変える⇒人生の展開が変わるって点で一緒よ。語学よ。
「超現実的ツール」として興味持ってくれる人、あんまりいないんだよな~~(´・ω・`)