ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

さよならプラトン

「ふつー」の基準値、理想的なモデル像があって、そこからどれくらいズレているのか(ズレが大きければ大きいほど欠陥や弱点として見なされる)って視点

 

じゃなくて

 

ひとつひとつがバラバラに様々なのがデフォルトで、その全体をひとまとまりにグループ化するときに要約されたイメージがいわゆる「ふつー」と呼ばれるものだって視点

 

を持つと、

 

平均値を理想や目標ラインとして定めるのがいかにナンセンスかってことがわかる。

 

 

収入、容姿や体型がわかり易い例だけど。

 

コトバの概念がそういうふうにできてるってことに「たしかになぁ!!」ってなった。

 

イヌというコトバにしても、特定の理想的な平均的イヌ像*1が頭の中にあって、それと目の前の生き物を比較してイヌかそうじゃないか見分けているわけじゃなくて

 

今までの経験データベースの中でイヌと呼ばれるものの共通点と、イヌじゃないもの(タヌキとかオオカミとか)との違いを要約して、目の前の事例をイヌかイヌじゃないのか仕分けしてる。

 

 

そのコトバの意味を、代表例を「持っている」んじゃなくて

その都度必要に応じてカテゴリー分けできること。

それが「意味を知っている」ってこと。

 

 

ひとつひとつの事例はバラバラなのが「ふつー」だってこと。神経の配線もそう。情動の現れ方もそう。

 

これまでのものの見方は、理想的な代表的イメージから大きくずれることを「異常」としてきたけども

バラバラがデフォルト、って前提で見ると、「異常」の定義も変わるよね。みんな必ず、なにかしら異常なんだから。

 

グループ化、カテゴリー分けされたときにつけられるラベルは、代表でも理想でもなく、バラバラなみんなをひとくくりにしたときの便宜的な「要約」なんだってこと。

その要約は、個々の事例と比較するためのもんでも、評価するための基準でもない。

 

 

いやぁ、この視点の変化って実はものすごいチカラがあるんじゃないか。ふだんの視点、社会の仕組みがいかに本質主義的(なにかひとつの原因、本質があるって考え方)なものなのかってことをハッとさせられたよ。