「怖さや酷さを幼子に聞かせては耳の毒、子育ての妨げになりますそうな。隅に追いやっても、生きていればいずれ必ず向き合わねばならぬことでありましょう」
「そうやって隠すゆえ、痛みを想像できなくなるのだ。今の子らの遊びを見よ。敵をただ殺して殺して、いびつな残酷さを 弄んでおるだけではないか」
「聴きたがるのは、己に都合のよい話ばかり」
昔話は主人公か悪役かが大抵むごい目に合うし、神話は理不尽で不道徳。そうやってオトナの「今現在主流になっている、暗黙のルールや価値観」に沿って書き換えられ、避けられ、忘れられていく物語たち。
子ども達を敢えて危険な目に遭わせたり苦しませる必要はないけども、それを安心できる人の声を通して、安全な場所から、覗き見ることを許してくれるのが物語だった。
物語は、正義や悪、教訓やハウツーを伝える教材じゃないからね。
人はなぜ好きになり、嫌いになるのか。
他者の幸福を喜び、その一方で不幸も面白いのはなぜか。
なぜ人は 嫉み、うらやみ、出し抜きたいのか。
運、不運はなぜ誰もに等しく訪れてはくれぬのか。
なぜ人は損得にこだわり、奪い、殺し、戦をやめられぬのか。
その問いを、人々は小さき物語に、時には長大な物語に託してきた。
幾世代にもわたって少しずつ細部をつけ加え、あるいは削ぎ落としながら語り継いできたのだ。答えの出ぬ問いを発し続けてきた。
ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
価値観や立場が違う色んな登場人物に出会う。私はそれぞれの「世界」に、物語を通して出会う。誰か(たいていは主人公)に自分の目をシンクロさせることで他の世界を見る。それが物語の楽しいポイントなんだけど、実はもっとすごいのは、それを客観的に見る視点(本を読んでいる私)も同時に存在すること。読書って、物語って、実はものすごいことをやってのけてるんじゃないか!!?
ホモサピエンスの認知革命はフィクション(物語)の発生によるものだ、ってのがドシンと腑に落ちた。これはすごいことだ。
自分の肉体を通した自分の目と、物語の中に登場する複数の人の目と、その目を借りる自分の目を意識したもうひとつ上の層から眺める自分の目。
どっかのビジネス書で「複眼思考」って表現を読んだ。
実はそんな大層なことでもない。物語を読むとき、私たちは自然に複眼思考ってやつをやってのけてるんだから。複数の次元から、ひとつの世界を眺める思考。