That Love is all there is,(愛こそすべて)
Is all we know of Love;(それこそ人が愛について知るすべて)
It is enough, the freight should be(愛さえあれば足りる)
Proportioned to the groove.(その荷が溝と釣り合っているのなら)
ゲームは現実を抜け出す別世界で、現実を映した鏡でもある。
そこにはプレイヤーの、クリエイターの、リアルがあるのかもしれない。
小説や映画、ゲームのキャラクターなら、信頼できない人物、あるいは狂信者や悪党であるとわかりやすく提示されていないかぎり、その言動は額面どおりに受け取られる。言動の総体がそのままそのキャラクターだ。しかし、生きた人間は違う。
世界の対比、登場人物の対比、見えている部分と見えない部分の対比…
それぞれをひっくり返し、ためつすがめつ眺められるのが読者の特権。読書の面白さ。
「どんな競技にも同じことが言える。その競技は、行われているその瞬間にしか存在しない。俳優の仕事だって一緒。人は現実に行われたゲームのことしか知りようがないし、自分が知る世界のことしか知りようがないのよ」
知りようがない世界に飲み込まれ、登場人物と視点を共にする。
いや、ほんと、実用書も面白いけど、やっぱり読書は「物語」がオモシロイ。
人は誰でもせいぜい人生の半分しか生きていない。ふとそんな風に思った。これまでの選択の積み重ねとしての人生がある。そしてもう一つ、捨てた選択肢が積み重なった人生がある。ときおり、そのもう一つの人生の存在が、いま現実に生きているほうの人生と同じくらいリアルに感じられることがある。
選ばなかった選択肢で、例えば職業とか、違和感なくありありと思い浮かべられるものに「自分の才能」があるって誰か言ってたな。
もし捨てた選択肢が積み重なったライン上にある人生もあるとするなら
それは半分以上になりやしないか??
無数のラインのうちの、一本。そこに今の私の人生がある。
おみくじみたいに一本引っ張り出す糸引き飴みたいな?
いや、もっと絡まってそうだけど。
終点に到達したつもりでいた。しかし、人生は到達の積み重ねだ。どこまで行こうと、その先にまた新たなゲートがあるのだ。(もちろん、ゲートが尽きるときはいつか来る。) また一つ鳥居をくぐる。 ゲートとはそもそも何か。 通過点だとセイディは思った。次への入口。その先に知らない世界が開けているかもしれない。扉をくぐり抜けた先で、成長のチャンスが待っているかもしれない。
ゲームなんて、遊びでしょう。
遊びなんて、所詮遊びでしょう。
そう、遊びは遊び。
でもね…
人を絶望から守るのは、遊びを求めるその心なのかもしれない。
え、実話なの?ノンフィクション?朝ドラみたいに実在するモデルがいるのかな?って思わされるくらいリアルな臨場感がある場面、場面で。
『ゲーム』が舞台の物語。
創作の物語。
自分の求める世界と他者の存在との葛藤の物語。
愛、大切な人。
愛、情熱を注ぐもの。
明日、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。
そして昨日という日々は、
阿呆どもが死に至る塵の道を
照らし出したにすぎぬ。
消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生は歩く影法師。
哀れな役者だ、
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。
白痴の語る物語。
何やら喚きたててはいるが、 何の意味もありはしない。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow.
「ゲームとは何か」マークスは言った。
「〝明日、また明日、そしてまた明日〟だ。無限の生まれ変わり、無限の贖罪の可能性だよ。プレイを続けてさえいればいつか勝てるという希望だ。敗北は一時のものだ。永遠に変わらないものなどこの世にないんだから」
永遠に変わらないものなどこの世にないんだから、で思い出した。
同時に読んでたエッセイ本、ここで引用されてた『コヘレトの言葉』もそんなハナシ。
著者、曽野綾子さんは旧約聖書『コヘレトの言葉』を「時に関する決定的な言葉」として紹介していた。
引用されていた一文が印象的でググってみたら、人生の『空しさ』について語り尽くしている書らしい、ってことがわかった。おもしろそうだから、読んでみよう!