一つ前の記事の最後で引っ張り出してきた、曽野綾子さんの『幸せの才能』。図書館に返却する前にメモ残しておこう。
曽野綾子さんは全然知らなくて、なにかの縁で出会って借りてきた一冊。
敬虔なクリスチャンなんだな、って印象の短いエッセイ集。
聖書からの引用は「へぇぇ」と面白かった。
年配の方の美徳、自己犠牲とか努力論とかが好きそうな匂いがしたから、私好みの価値観ではないんだけど。短いエッセイで自分の主張、視点をパシッと&やわらかく言葉にできるって、素敵だなぁと思った。
愛は、誰かを好きになることではない、と教えられた時は少しびっくりした。聖書は、愛についておもしろい解釈をしている。私たちは愛している者が道を踏みはずすと、一生懸命、説き聞かせて、いい人間にしようとする。それが愛することだ、と思っている。
しかし愛は相手を変えさせることではない。そのまま見守ることだ、というのだ。
最近、エーリッヒ・フロムを読んでみたいなぁと思ってたから『愛』トークに興味津々。
私が今興味があるのは、恋愛とか、愛情とか、そういうラブロマンスな愛じゃなく・・・もっと大きい視点の「愛」を言語化してるハナシ。
幸せというものに関して考え違いをしている人がいる。幸せは外部から客観的に整えられる条件で、お金があれば幸福、なかったら不幸、という図式的な考え方である。しかし幸せを感じる能力は実は個人の才能による。
しかもその才能は、天才的な素質でも学歴でもなく、誰にでも備わっている平凡な、しかも自分で開発可能な資質なのである。
西任暁子さんがフロムの『愛するということ』を紹介していた「愛は技術」という視点に通じる!
『幸せの才能』の中で聖書を引き合いに出したテーマは、『愛』と『時(コヘレトの言葉)』と『勇気』の3つだったかな。
「勇気」は男らしく好戦的な言葉だという印象があるが、聖書でいう勇気(アレーテー)はそうじゃない、もっと複雑な幅のある言葉なんだ、と。
『アレーテー』は勇気のほかに、徳、奉仕貢献も指す。それを曽野綾子さんは「世の中で自分が損な立場に甘んじられる意志を持つこと」という。
アレーテー(勇気)に徳と奉仕貢献が入ってるって部分はオモシロイなって思ったけど、それをこう定義するってのが、クリスチャン的視点なんじゃないかなーと面白く思って。
私は「徳、自己奉仕」を「損」な役回りを敢えて引き受けるとは全く見てなかったから。
確かに人によってはボランティアは「損」だって思うもんね!
奉仕しなさい、愛しなさい、って説くのは、損な立場を敢えてとる「謙虚さ」を身体で覚えさせる目的があってのことかも。誰が上だ、何が下だ、を強く意識する…というかその構造が前提として染み付いている民にはそうやって教育するのがよろしいかもしれない。
でもそもそもその「謙虚さ」がデフォルトである(その代わり謙虚さとはまた別の学ばなきゃいけない未熟なテーマを持つ)文化圏の人には、やっぱり根付かないんじゃないかな、とも思った。
そういう文化圏の人には、「徳、奉仕活動、勇気」はまた別の意味を持つんじゃないかしら。