ガブリエル・ゼヴィンの『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』が面白かったから、同じ著者の本を図書館で探したら一冊だけ発見。
物語って・・・あらすじにしてしまうと、面白みが全く抜けちゃうんだな!!
本を読む前に参照する「あらすじ」、読後に眺める色んな人のレビューを見て、改めて思ったよ。
読み終えて、「私の好みの物語」が見えてきた。
私は、「物語を愛する人が描く物語」「言葉のチカラを信じる作者の言葉」が好きなんだな!!と。
ぼくたちはひとりぼっちではないことを知るために読むんだ。
ぼくたちはひとりぼっちだから読むんだ。
ぼくたちは読む、そしてぼくたちはひとりぼっちではない。
ぼくたちはひとりぼっちではないんだよ。
人間はひとりぽっちの孤島じゃない。
少なくとも、完ぺきな孤島じゃない。
『書店主フィクリーのものがたり』を終えてちょう今読み始めているエーリッヒ・フロムの『愛するということ』のはじまりが、「孤独(孤立)」についてだった。
人類の究極の欲望は「孤立から逃れること」。
孤立こそがあらゆる不安の源で、それに抗ってきた解決方法の積み重ねが人類の歴史なんだ、って。
『フィクリー』は別に孤独や孤立をテーマとして打ち出してはいないし、フロムが説く「愛という解決方法」を鮮やかに描いているわけでもない。それでも、それぞれの登場人物がそれぞれに抱く孤独、さみしさ、やりきれなさが、ふっと感じられる。
登場人物紹介で出来事を羅列してしまうと辛気臭いけど、物語は全く悲壮な感じはしないし、暗いどよんとした後味を残さない。もちろん、無理やりポジティブ変換やハッピーエンドにこじつけもされないし、それがすごく好きだな。
フロムが人類最大の課題、孤立に対する最強のスキルとして「愛」を挙げた(まだ読み始めたばかりだけど、たぶんそういう方向ですすむよね?)ように、やっぱりこの物語にも「愛」にふれる。
愛というもののなんともやりきれないところは、ひとがひとつのものにくそったれな愛を注ぐと、あらゆることにくそったれな愛を注ぐはめになるということだ。
目に映る全てがキラキラに全く違うものに見える、世界はそのままなのに、愛のビフォアとアフターで別世界になる。その愛あるある(?)を「くそったれ」な一文ですませちゃうところが、イイ(笑)
『フィクリー』は別にロマンスの物語じゃないんだ。
だけど、物語に挟まれるロマンス部分もとても魅力的だった。
正直、恋愛メインの物語はあんまり好きじゃないんだけど、ガブリエル・ゼヴィンの描くロマンスは『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』『書店主フィクリーのものがたり』は、恋愛系によくあるしつこい感情描写とか、ドロドロした恋愛駆け引きが無いのが、好き(笑)
あと、やたらセックスを美化したり鼻息荒く書いてるやつも好きじゃないけど、彼女の物語はそのあたり、とっても私好み。省いたり隠したり(ほのめかしたり)することもなく表現してる。
"自分たちに魅力がないから孤立するという事実は、秘めたる恐怖である"とその一節はつづく。"しかし孤立するのは、自分たちには魅力がないと思いこんでいるからである。
いつか、それがいつとはわからぬが、あなたは道路を車で走っているだろう。
そしていつか、それがいつかはわからぬが、
彼、あるいはきっと彼女が、その道のどこかに立っているだろう。
そしてあなたは愛されるはずだ、なぜなら、
生まれてはじめて、あなたはもうひとりぼっちではないのだから。
あなたは、ひとりぼっちでひない道を選ぶことになったのだから"
こんな文章好きだな、こんな物語すきだな、こんな展開が好きだな、がだんだん見えてきた今日このごろ。
小説というものは、人生のしかるべきときに出会わなければならないということを示唆している。
覚えておくのだよ、マヤ。ぼくたにが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね、逆もまたしかり。
このこと本においても、人生にときても真実なのだ。
それも、「今の私」の好みであって、きっと10年後20年後はまた違う味わいを楽しんでるんだろうね。
今の私の「好き」は今の私でしか味わえないんだから、思う存分今の「好き」を愛でたいね!
「ぼくたちは、ぼくたちが集めたもの、
かちえたもの、読んだものではないんだ。
ぼくたちは、ここにあるかぎり、ただ愛するものだ。
ぼくたちが愛したものだ。
ぼくたちが愛したひとたちだ。
そうしたものはね、
そうしたものは永遠に生き続けるとおもう」
いや、「愛」を前面に出した物語ではないんだよ。
これは私が今興味ある分野だからってこと。
生命力の鋭い直観(大腸)、最小のリスクで最大の効率を計算するストッパー機能(脳)・・・大腸、脳に次いで創造された神経細胞のカタマリ、心臓。この心臓が果たす能力が『愛』なら、やっぱりニンゲンこれから学ぶ(進化する)べきことは『愛』なんじゃないか、って思うから。
生き続けるイノチ、で思い出した福岡伸一せんせの「記憶」についてのハナシ。
生物(物理)的にいえば、記憶ってのは細胞の中に保存されてるわけじゃないのね。細胞と細胞の間に記憶はある。記憶は、細胞と細胞の関係性、情報の回路。
細胞は常に分解されて再構築、交代しているから、数年前の私と今の私は同じに見えて全く違うモノ。もし記憶が細胞の中に保存されているのなら、その情報はキープされることはないはず。
じゃあ記憶はどこにあるのか?
細胞がすっかり入れ替わってしまっても、細胞と細胞のつながり(回路)が同じルートで維持されていれば、そこに電気が走って発火すれば、記憶は蘇る。記憶の実態は、モノじゃなくて関係性。回路を走る光。
記憶は実態のあるブツじゃなくて関係性の中に浮かび上がる光。
その人をその人たらしめる光。
カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかった―そう母親に言いました。
でも、カパルディさんは探す場所を間違えたのだと思います。
特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。
『クララとお日さま』で、死んだ人間を完コピすれば「継続」できるか?という問いが投げかけられていた。
人生は長編小説そのものではなく、短編集。
好みに合うものもあれば、合わないものもある。
傑作も、お粗末なストーリーも。
フィクリーさんは、そう回想する。
短編集、白痴の語る物語。
人生は歩く影法師。
哀れな役者だ、
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。
白痴の語る物語。
何やら喚きたててはいるが、 何の意味もありはしない。
そりゃあ、そうさ。
語り終わった物語から意味を受け取るのは、語り手じゃあなくて聴き手なんだから。
かちえたものはその瞬間に白紙に還る。
永遠に生き続けるのは、物語を物語につなぐもの。
コトバの行間。いのちといのちの接点。
人間は孤島にあらず。
島と島を渡る船、光の船がある限り。