摩訶不思議な循環が起こるんだよってハナシ
ここんところ、特に面白かった本をnoteで紹介する遊びがマイブームです。時に「非因果論」的なハナシもぶち込むので、真面目に書いてるこっちのブログとは連携しづらくって。
「因果論」的なハナシってのは、こうすれば⇒こうなるっていうロジカルなハナシ。
そういう思考の整理術みたいな考え方、批判的(哲学的)思考は大好きでこれからももっともっとべんきょーしていきたいな、とは思うんですが。。。
それと同じくらいナンセンスなもの、一見するとくだらなくて何の役に立たないものについて考えるのも大好きなんです。
やっぱり何がナンセンスかっていうと、「非因果論」的世界観なんですよ。
私たちは言語(論理)という接点で主に世界に触れているから、一直線上の因果関係でしかものごとを捉えにくい。そんで、それが全てだと思い込んでしまう。
でも「身体」っていう接点で見ればそれは前後関係だけじゃない全方向の「感覚」があるわけで。過去と未来を分けて考えない情報の捉え方をしてるでしょ。トラウマは過去を今目の前で起こっているかのような反応を身体が引き起こすことだし、不安ってのは未来を先取りして感じている脳の働き。
「感情」は個人を超えて集団に影響を与えるし、「論理」とは別のシステムとして機能している。しかも人間の行動は「感情」が機動力だもんね!
「意志には抑止力しかない」ってのは衝撃的な仮説だけど、そういう視点もオモシロイ。(ベンジャミンリベットの実験)
で、非因果論的なハナシってのはね・・・
因果関係のない、全く「こう、だから、こう」で繋がらないモノゴトを、「意味」というまとまりでつないだもののことなのよね。こういうのを心理学では共時性(シンクロニシティ)といって用語をつくってくれているんだけども。
因果関係じゃあ説明できない何か「つながり」のようなものがあるぞ?ってのが発端だよね。そこから無意識とか潜在意識って世界が認められるようになって、脳神経学やらなんやらで「説明」がなされるようになると、それも因果律のなかに組み込まれるようになったわけだけど・・・
内界は、すなわち無意識界である。
それは内省可能な領域を指しているのではないことに注意しなくてはならない。自己をみつめるとか、内界に目を向けるということで、自分の感情をあれこれ表現したり、自分の心境をああでもない、こうでもないとひねくりまわすようなことをする人もあるが、そのようなことを言っているのではない。
われわれが問題としている内界は、自我によってコントロールできない、 あちらの世界なのである。
私はそういう非因果的な世界観を土台にして発展してきた「占い」の類をけんきゅーしながら、やっぱりおもしろいなぁ目の付け所が!!!といつも新鮮なオドロキを楽しませてもらってます。
これは一種の人工言語、ひじょーに「哲学的」な。
でもやっぱり、「占い」界隈で出会う人の中には
「○○座(△型)だから~な性格なのね」
「占いではありません、統計学です」
「XXXを連続で見ました。どういう意味がありますか?」
と言う人も多々いて、私はそこには賛同できないんだよね。
それって因果律じゃん。
ニンゲン、固定された視点(前提となる信念)はなかなか外せないんだな~、と。そうであるならなおさら、論理的な「思考力」がないと危うい世界だな、とも思う。。。
統計うんぬんに関しては、説得力を持たせようとして「科学的」だという疑似科学詐欺の類と変わらんじゃないか、とも思う。
むしろ「占い」は再現性のない「その時その一瞬」にフォーカスして、因果律や科学的裏付けからこぼれおちたその人独自の「ナニカ」に光を当てようってココロミじゃないのかな。一人のニンゲンの生命に、人生との向き合い方に、正解も、再現性もあるわけないやん。
そこに真剣に向き合う、もしくは向き合ってもらうってのは、とても意味のあることだと思う。
そうなると、臨床心理やケアの世界に通じるもんもあるんだろうね。そういう分野の人が提供しているケースも多いことを知った。
「上司」とか「同世代の友達」とか「ちょっとカシコイ経験豊富な人」とか、そういう枠をとっぱらったある種ランダムでカオスな視点で、問題や課題を見つめてみるってのもすごく創造的な営みだよね。
問題が問題なのは、それを同じ次元で見ているからだ。
ね、アインシュタインもそんなようなことを言ってた。問題はそれと同じ次元では解決されない、って。視点(捉えどころ)を変える必要がある。その大幅なスケールアップ&ダウンのピント調整金力トレーニングに、私は占星術を使っている。
性格や過去を当てたり、未来を予測することにはあんまり興味ない。決めつけられるのは大嫌い。考えることを放棄するのも嫌だ。(「占い」の危うさは、ここにある)
不可思議は不可思議なまま、世界の色んな側面を楽しみたいよねぇ。
ああ、私、いったいどこに向かってるんだろう・・・(笑)
目下、構造主義的なまなざしで、臨床的な姿勢で、「占い」の類を楽しんでおります。おもしろいよ。そいで別館ブログが盛り上がって、いまやこっちよりもメインになってきている(笑)
例えば私は出生日と時間、場所から割り出した星図を元にリーディング(翻訳)をする。占星術には占星術の、ちゃんと文法とか単語とかルールが(やかましいくらいに)あるんだよ。
私はそれを「鑑定」としてではなく「物語」として読むのが好き。その人のためだけに作るお話の語りきかせ、弾き語りみたいな。そうすると、不思議なことに「非因果的な」ことが多々あり、受け取る人と私の間でなんかものすごい感動が生まれたりってことがある。これもオモシロイ。
それで私はショーバイをするつもりはないから、お礼に「本」をいただくの。そんでまたオモシロイネタが集まって、次に出会う人の物語のカギになってたり、なんて摩訶不思議な循環が起こる。
「非因果的な世界を楽しむ」というとどうしても、ぶっとび系のオカルトに触れる機会が多くなるのが・・・悩ましいところなんだよなぁ。エンタメとしては昔から大好きだったんだけど、ここ数年は、なんというか・・・ほら、ねぇ。笑えないネタが増えつつあるし(笑)
それもやっぱり、因果律的な視点で世界を判断しているのか、非因果的な感受性で新しい視点を見出そうとしているのか、って自覚がいるんでないのかな。
バリー・ベイヤーの思考スキル
①実証可能な事実と価値主張の区別
②無関係な情報・主張・理由から関連する者の区別
③陳述の事実に関する正確さ
④情報の信頼性
⑤あいまいな主張や議論の特定
⑥述べられていない仮説
⑦偏見
⑧論理的エラー
せっかく、ロジカルなオモシロサとマジカルなオモシロサ、一方が一方を馬鹿にしたり蔑んだりすることなく、両方楽しめる人が増えてきたんだから、そのバランスのとり方が今後の課題なのかな。
バランスというか、メタ。AとBの視点を手に入れたのなら、Aの時の自分をBの視点で見るだけじゃなくて、AとB両方を見るCの視点も必要になるってこと。
自己実現とセルフケアにCの視点はすごくイイ!!と思うんだけどなぁーーー
占星術界では異端だし、カタギでもアヤシイやつ扱いされちゃう。
どうにかその視点のオモシロサを言語化したいと思ってブログやらnoteやらで一生懸命書いてるんだけど。