ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

私の言葉は要するに「要せない」ところに意味がある

 

理解と呼ばれる行為が「つまり、あなたはこういうことを言いたいんですね」という言明に置き換え可能なものであれば、それは〝回収〟であって聞くことではない。

もしくは自分が理解できるものを相手に見出していると言えるけれど、それは投影であって理解とはほど遠い。

 

一人ひとりの体験は決して一般化されない。

 

「相手から相手を観る」とは、その人の話をその人の話として聞くことでもある。私の予見を通してではなくして。

 

たいていの場合、人は相手の話を「その人の話」としてではなく、「自分の話」として聞きがちだ。自分の理解できる範囲の出来事を相手に見出しては「わかる」と言い、共感できないことはただちに「わからない」と判断する。

わからなさを前にした途端、実際には口にしなくても、心の中で相手の話に対して「つまり・結局・要するに」を持ち出して解釈することに忙しい。その後に続くのは「だから良い・悪い」のジャッジだ。

 

体験していることが、「それはどういう意味を自分にとって持っているのか」と問い、捉えていくとき、体験が経験に転換されていく。

自身が感じたことや思ったことが自分のすべてではなく、それがどのような意味を持っていたのかと問うとき、私たちはそれを経験として理解するようになる。自分をもっと奥行きのあるものとして把握できるようになる。

 

語りが離散的だから聞くに値しないと判断する、あるいは聞いている側が意味として把握できる範囲に限定し、自分の見知った事柄に引き寄せて理解するのであれば、実は話をまるで聞いていないことになるだろう。

 

「変えるとか以前の状態に戻すではなく、今ここの瞬間のあなたに注目する。それが大事だ」

 

生きることの価値が生きている事実以上にあるだろうか。生きていることをただ受けとめる。

 

「要するに」で心の内が話せるわけがない。「要するにあなたの言いたいことはこういうことですね」と聡明な人に凄まじく切れ味のいい言葉で言われたら、一瞬はすごくわかってもらえた気にはなるだろう。嬉しいかもしれない。

でも、要せない気持ちが心の奥にあることになんとなく気づいているのではないか。

 

わかり合うためではなく、わかりあえなさが明らかになるとき、かけがえのない存在としてここにいることがわかるからだ。