ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

「わかりやすさ」を期待しない

自分が伝える側の立場であるなら、相手に自分の意図を「わかりやすく」伝える工夫をすべき。分かってもらえないことを相手のせいにしちゃいけない。

 

kotokotoba.hateblo.jp

↑去年からずーっと「がんばるぞ!」って言ってるのに、私のコミュ力はなかなか成長していない(笑)

 

んで、タイトルの【「わかりやすさ」を期待しない】ってのは、私が学ぶ側だった時に心に留めておきたいと思ってること。

 

その場でストンと納得できることって、もともと自分にとって違和感のない考え方ってことだから。確認作業としてわかりやすい情報を求めるのはいいんだけど、それは「学び」とは違うと思うんだ。

 

学びは、変容。学ぶ前と後で自分の中のナニかが変わっていること。成長に向かっていること。変化するってことは、「違和感」を受け入れないといけない。わからない、理解できない、納得いかない。それをひとまず取り込んで、どうにかこうにか消化して、自分なりに吸収する。インプットする。

 

「今、現段階でわかっていない、納得できない」ってことは、それを理解できた時には「今」とは違う考え方・視点を手に入れられるということ。

 

消化吸収、違和感を受け入れることって、エネルギーを消費する。頭使って考えることってカロリーめちゃくちゃ消費するでしょ。生物の原則的には、エネルギー消費量をできるだけセーブしたい。だから楽なほう(=考えなくて済むほう)を選ぶのが生物的な本能。あと、変化を嫌うのも生物的な本能。

 

↑生物としての観点からヒトを見るってのもオモシロイ!! 

 

「学ぶ」って、本能に逆らうことなのかもしれない。

それはおかしい、学ぶこともニンゲンの本能だ。子どもを見ろ!赤ちゃんを見ろ!そういわれると、確かにそう。ヒトって本能的に学ぶことを欲求しているようにも思える。

 

いや、矛盾した本能が衝突して、その割合を調整しながらグイグイと揺れているのがニンゲンらしさなのかもしれない。

 

YingYang

「矛盾したエネルギーの境目は直線じゃない」ってことを表現している東洋哲学のシンボル。

 

「学び」は変化する自分を受け入れる挑戦だと思う。生物的な本能に従えば、できれば変化したくない。分からないことは避けたいし、ムズカシイことを理解するためにエネルギーをいっぱい消費することもできれば避けたい。

 

だから、「わかりやすい」ものをヨシとしてしまいがちなんだと思う。

 

もちろん伝える側は分かりやすく伝える努力は必要。でも受け取る側であるなら、わからない部分にこそ学びのチャンスがある!!くらいのスタンスがイイんでないかな、って思う。

 

それに「わかる」ことと「わからないこと」ってそんなにパッキリわかれていないと思う。

 

わかるのかわからないのかわけられているのか、わけわかめ。(にわにはにわにわとりがいる、みたいな…)(←こういうことどんどん追記して収集がつかなくなるから私のブログはいつも長文で読みにくいんだ)(←←そう思いながらも書いちゃう)

 

学ぶってのは、情報を「持ってる」or「持っていない」っていうアルナシじゃないと思うんだ。(学校だとそれが学びの定義だったけど)

 

だからね、「わかりやすい」ことを求めて「わかりにくい」ものを切り捨てちゃったら、「学び」のチャンスを少なくしちゃうんじゃないかな

 

わからなくてもとりあえず受け入れる。エネルギーをかけて消化・吸収する。そうやって自分の「身」に栄養としてとりこまれていく。成長の糧になる。そう思うんだ。