好きな作家さんがまた増えちゃった。
本好きな作者の、本にまつわる想いとか、作家さんの物語論みたいなものが、私のスイートスポットだと気付いた2024年。
この小説も、小説家が主人公。
小説を書き始めるプロローグも、好き。
そのプロローグは無料版で読めちゃう↓
記述では回収できないナニカ
プロローグで「固有名」について話し合ってるくだり、『クララとおひさま』のクライマックスを思い浮かべた。
カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかった―そう母親に言いました。
でも、カパルディさんは探す場所を間違えたのだと思います。
特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。
言語や知識は個人の頭の中にはなく、共同体によって決定されるということだ
私という人間、固有名を持つ存在は、肩書きなりデータなりなんなりどれだけ情報を羅列しても、完全に説明できない。記述で回収できない何かがある。
読書、虚構、創作について
読書とは本質的に、とても孤独な作業だ。映画や演劇みたいに、誰かと同時に楽しむことはできない。最初から最後まで、たった一人で経験する。
それに加えて、本は読者にかなりの能動性を要求する。目の前で何か行われていることを受けとればいい、というわけではない。読者は自分の意志で本に向きあい、自分の力で言葉を手に入れなければいけない。
特別な本に出会ったときは、言語で説明できない 類 の感動をおぼえる。
百パーセント言語によって構成された本という物体が、どうして言語を超えることがあるのだろうか──少なくとも、言語を超えたような錯覚を得ることができるのは、どうしてだろうか。
ね!コトバのオモシロサだよね。
主人公は(そして多分主人公の向こう側にいる著者は)小説という虚構の世界で「飯を食う」ことにちょっとした引け目と言うか、後ろめたさみたいなものがあるのかな。
だから、同じように「虚構によって社会の中に居場所を見つける」他の様々な登場人物を、責めきれないでいる。
それは、その虚構がもたらしてくれる魔法のようなチカラ、感動もわかるからこそなのかも。
小説家に必要なのは才能ではなく、才能のなさなのではないか。
普通の人が気にせず進んでしまう道で立ち止まってしまう愚図な性格や、誰も気にしないことにこだわってしまう頑固さ、強迫観念のように他人と同じことをしたくないと感じてしまう天邪鬼な態度。小説を書くためには、そういった人間としての欠損―ある種の「愚かさ」が必要になる。
何もかもがうまくいっていて、摩擦のない人生に創作は必要ない。
普通の人が気にせず進んでしまう道で立ち止まってしまう愚図な性格や、誰も気にしないことにこだわってしまう頑固さ、強迫観念のように他人と同じことをしたくないと感じてしまう天邪鬼な態度・・・
私やん。(特に最後)
それがあれば小説家になれるかっていうと、当然そんなことはなく。「才能」でひとくくりにするつもりはないけど、やっぱりナニカはあると思うのだよ。最終的に小説家という役割を「選んで」、その役割に「選ばれた」ってナニカ*1が。
チャート理論
「ちなみに、理論自体は正しいものなの?」
「それは答えるのがむずかしい質問だね。俺は個人的に、人間が理解可能なあらゆるチャート理論はインチキだと思ってるけど、実際にはかなりの人が何かしらのチャート理論を信じている。で、チャート理論を信じている人がある程度いると、売りや買いの相場もその通りに動いてしまうんだ。そういったメタ的な観点でチャート理論を利用しているトレーダーも一定数以上存在するし、なんとも言えないっていうのが正直なところだね」
これ、占いの手法というか目の付け所でもあるよね。
「それぞれのものごとに固有のリズム」(があると仮定して)行動や社会動向を見るって意味で。しかもしれが自己成就予言やら様々なバイアスやらで、結果的に「当たる」ことになるって点でも。
ちなみにこの会話のきっかけとなった人物とは別に、インチキ?占い師も最初の方に登場する。その人は「霊感商法」系だったけど、やつらの(笑)手法を暴く流れがすごくおもしろかった。
そんでもって、それを「断罪」しないところも、すごくおもしろかった。
↑ちょうど私も、「虚構との付き合い方」に抱くモヤモヤを本にしたところで。。。!どうして占い好きな人は視野が狭くなるのか?バイアスまみれになっちゃうのか?
そうならない楽しみ方だってできるだろ、ってモヤモヤ。
虚構を売る仕事
小説を書けば書くほど、小説がわからなくなっていくような気分になることがある。
小説にはさまざまな可能性があって、僕にはその可能性のすべてを掬いとることができない。
しかし、小説を書いてみなければ、小説の可能性に気づくこともない。
小説を書くということは、僕の知らない、僕には届きようのない小説が無数に存在することを知るということでもある。
小説を書いているわけでもなければ、ちゃんと「占い師」として虚構を売っているわけでもない私が、こんなふうに感じるのはひじょーにおこがましいことはわかってるけど・・・
それでも、すごく心打たれた。
ここでいう「小説」は、私にとっては「物語」で、私が無数に存在する「物語」の存在に触れるのは、やっぱり「虚構を売る仕事」代表格である占い(占星術)であって。
「わからない」にふれることは、私にとってすごく大きな出会いで、大きな価値あることで。
上の電子書籍を書くときも、ひたすら「わからない」について考えていた。
インターネットでもいいし、新幹線でもいいし、ディズニーランドでも、一蘭のラーメンでもいい。僕たちは日々、これまで知らなかったものに触れる。それらは多かれ少なかれ、僕達の人生を変える。
まだまだ、世界には自分の知らないことが数多く存在するのだと教えてくれる。
「氷」とはすなわち文明であり、宝石であり、奇跡であり、神だったのではないか―僕はそんなことを考える。
エディは世界に触れることで、世界の広さを知る。自分には知らないことが数多くあるのだということを知る。それこそが「転」だ。
エピローグ、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の冒頭で出てくる「氷」の記述にインスパイアされて、小説の構想を練る主人公(著者?)。
氷を始めて見た少年の物語。
*1:※運命とか使命とか努力とか、そういう抽象語でくくるつもりも、ない。