ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

ちょっと休憩が必要なすべての人に捧ぐ

ちょっと休憩が必要なすべての人に捧ぐ

 

(読み始めの頃に書いていたメモ↓)

冒頭を読み始めたところ。きっと、好き。

海外のSFでよくある「ロボットに意志がめばえた」未来のハナシなんだけど、意思を持ったロボットが自然界に去っていったって前提世界がオモシロイ。

 

読後、やっぱりおもしろかった!!新しく感じた、好きな雰囲気♡

 

こんなのどかで癒されるSFがあるのか…!もしニンゲン社会が、今と全く違う価値観をもとにテクノロジーを存分に活かしたら…そんな世界観に心トキメク。

かといってただの、ほのぼのストーリーかって言うとそうではない。


私の「使命」はなんだ、なんのために生きてるのか、自分に何ができるのか、どうやって社会に、世界に貢献できるんだろう…そんな思いが頭をかすめたことがある人に、きっと刺さる物語。

 

あ、そうか。

第2章のはじまりに書いてあったのは、このことか。

 

自分がどこにむかっているのかわからない人々に捧ぐ


SFでもファンタジーでも相棒と旅するロードムービーでもなければ、そのどの要素も楽しめる物語。アニメ映画っぽいタイトル、テーマだけど、小説だからこそ味わえる気持ちよさがある。

 

構成要素を足しあわせただけではない、なにか

主人公デックス(そして読者のワレワレ)は、ロボットのモスキャップに出会ってそのキャラの強さ(笑)に驚く。

ロボットはもっと数字と論理だけでできている、精密で組織化されたものだと思っていた、と言うデックスに対して

 

「ワタシは金属と数字でできています。アナタは水と遺伝子でできています。でもワタシもアナタもそんなものだけではありません。その、ワタシたちの構成材料からできるそれ以上のものが何か、定義することはできません」

 

と自分の知覚について述べるモスキャップ。

ひとつひとつの構成要素を足し合わせただけじゃない、大きなまとまりから生まれるひとまとまりの存在、意味。おおもとの核だとか、パーツだとかに還元できない何か。

 

たしかにいのちってのは、パーツに還元できないまとまりと、そのまとまりから生まれる「意味」(これを意思、とも言えそうだ)で出来てるもんね。

 

生態系のパラドックスについて

このストーリーは、人類のテクノロジーが自然と共存する、いわゆるサステナビリティを軸に発展した社会を舞台にしている。

ロボットは森で暮らすことを選び、ニンゲンとたもとを分かつ。

そんな大転換を経て、何世代も経って・・・

 

モスキャップはロボット代表として、ニンゲンのデックスに出会い行動を伴にする。「いまのニンゲンたちの暮らし、社会がどう変わったのか」を知るために。

 

大自然で生きることを選んだロボットと、自然と折り合いをつけて生きることを選んだニンゲン。

 

デックスともスキャップのやりとりを通して、自然や生態系、周囲を取り巻く世界について、その世界に対する態度について、たくさんの視点からのぞけるのがすっごくおもしろい。

 

例えば自然の景色を眺めてその美しさに感嘆するデックスに、モスキャップは言う。

 

「きれいです。死にゆくものは往々にしてきれいなものです」

 

デックスは片方の眉を上げた。「その言い方はちょっとぞっとする」

 

「そう思いますか?」モスキャップは驚いていた。

「なるほど。私はそうは思いません」ロボットは近くに生えているやわらかなシダに手をふれ、毛皮をなでるようにその葉をなでた。

「ワタシは廃れかかっているものを見守れるだけの運に恵まれていることを美しいと思います」

 

ニンゲンが生態系に介入して失敗した例を挙げて、生態系のパラドックスにも触れる。

どの生き物も、より快適な、安全で暮らしやすい状態を求める。それは本能なのだから。でも全体としての生態系は、それぞれの生き物たちが全滅しないように抑制をきかせることを求める。

生態系全体と、構成員たちのメカニズムのパラドックス

 

個々の構成員たちが暴走しないように抑制をきかせるひとつが、「恐怖」という感情

生き物は、「恐怖」をなんとしてでも避けようとする。

ニンゲン社会は、ものごとを抑制するために、今も「恐怖」のシステムに頼っている。

 

成熟した宗教、信仰

主人公デックスはお坊さん(シスターでも坊主でもなく、シブリング※ってのが未来的!)なんだけど、デックスのふるまいや思想を通して、この世界の価値観、宗教、信仰意識がわかる。

※兄弟姉妹、性別の区分けがない呼び方SIBLING

 

その宗教観が、またイイんだなぁ。

擬人化された神でも、依存的な支配構造でもなく、偶像崇拝ではなく抽象的なものを抽象的なものとして落とし込める精神性の高さ。。。

 

「神々って……そういうものじゃない。子ども神は親神の法を破ることができない。彼らは介入するのではなく、インスピレーションを与えてくれるの。

変化や幸運や慰めがほしいなら、わたしたちは自分でそれを創り出さなきゃならない

 

成熟した世界と、豊かな社会のなかで主人公が抱く葛藤

助け合い、支え合うことを中心に発展発達した世界で・・・

私一人が好き勝手なことをするわけにはいかない、自分の才能を活かして社会に還元しなければいけない、自分のいのちは、とりくむべき使命にそそがなければ・・・

幸せなはずなのに、なに不自由ないのに、日々の暮らしは楽しいものなのに、真綿で首を絞められるような息苦しさはなんだろう。

 

新しい方向に舵を切ったニンゲンたちが「必要としているものはなにか」を聞き取り調査するモスキャップは、ニンゲンたちが「使命」に固執することに疑問を抱く。

 

「使命」を巡るデックスとモスキャップのやりとりが、すごくよかった。

 

「それならどうして、アナタがたはそんなに使命をもつことに固執するんですか?使命を見つけようと必死になり、それがないとみじめだと思うんですか?」

 

「アナタは動物なんです、シブリング・デックス。

そして動物は使命なんて持っていない。

使命をもつ生物なんていないんです。

世界は単純にそういうものなのです。

アナタがほかの人のためになることをやりたいというのなら、けっこうなことです!いいことです!ワタシもそうです!

残りの日々をフロストフロッグと一緒に洞窟に這いこんで石筍を見てすごしたいとワタシが思ったなら、それもたいへんけっこう。

 

アナタはずっと、なぜ自分の仕事はじゅうぶんじゃないのか問いつづけていますが、それにどう答えていいかワタシにはわかりません。

なぜならこの世界に存在しているというだけでじゅうぶん驚嘆すべきことだからです。アナタはそれを正当化する必要はありません、むしろ誇ってください。

アナタは生きているだけで許されているんです。

ほとんどすべての動物がそうです

 

モスキャップの言い分もわかるけど、ニンゲンはそれだけじゃだめなんだよ、とデックス。ただ生きているだけじゃダメ。肉体的に必要なもの、欲求のほかにもいろいろとやりたいことや大志がある、それがニンゲンなんだ、って。

 

モスキャップたちロボットにも大志ややりたいこと、生存し続ける以上の欲求はある。違うのは、そのために自分を傷つけたりしない、ってこと。

 

ここではデックスが実際に怪我をするような無謀なチャレンジをしたことを指しているんだけど、そうじゃなくても、わたしたちは自分を傷つけてまでなにか(使命)のために自分を犠牲にしようとすること、ないだろうか。

 

宇宙は循環する。ニンゲンも他の動物や植物や宇宙に存在する構成員と同様に、また宇宙の一部として循環する。

今目の前にある世界、自分という存在、それは繰り返しリサイクルされる原子やエネルギーの、一時的にカタチをまとった存在。

スピノザ的視点だね!!!)

 

モスキャップは、自分たちがそんな世界の構成員であること、そして自分がそういうものだと理解できることそのものが、驚嘆すべきことじゃないか、という。

 

デックスだって、もちろんわかっている。

頭では、知識では。でも、だからこそ、自分の存在が「今このときだけ」のものであることが虚しく、怖くなる時がある、という。

(ここは、ハイデガー的視点だな!!)

 

「私にあるのは今このときだけ、そしてどこかの時点でわたしはただ終わるんだよ、いつそうなるかもわからない。

そしてーもし今回の生を何かのために使わなければ、そして絶対的にすばらしいものを作らなければ、わたしはなにか重要なものをむだにすることになるんだよ」

 

いのちをムダにしたくない、と言っちゃうと安っぽい言い方だけど。。。

満たされた世界で生きるからこそ、焦りとか責任感に悩むのかもしれない。

 

この物語ではロボットは永続する存在であることを辞めて、世代交代をする一種の生物のような生き方をしている。ロボットは永遠に生きることもできたのに、それを選択しなかった。

モスキャップは第一世代のロボットじゃないから、その選択には直接関わっていないとはいえ、それについてどう思うのかと問われる。

 

この「限りある時間」に生きるいのち、人生が、もしかしたら「無意味」なのかもしれない、そんな考えを受け入れられるのか、と。

 

これね!!この悩みを(悩みだと自覚せずに)持っている人をよく見るよ!!!占星術に関わってきたからだと思うけど。

「使命」を求める、人生の「意味(目的)」を求める、「前世」のストーリーやより大きな存在からの「ミッション」を求める。

自分の行動、選択は、大いなる(いわゆる上の次元の)意図によって導かれている

という思想。その思想自体は否定しないけど、それを「求める」(そうじゃないといやだ!そうであるはずだ!)ことに、私はいつも首を傾げたくなる。

 

そうであってもいいし、そうじゃなくてもいい。

目的があったとしてもなかったとしても、それは私が感知すべきことでも信じるべきことでもない、と思う。それを信じるかどうか、人生の仕組みや意味を把握しているかどうかは、実際に生きていくうえで重きを置くものではないと思っている。

私はモスキャップ側の意見に近いんだろうな。

 

「それは、何があろうとワタシはすばらしいとわかっているからです」

その言い方には傲岸不遜なところもなければ、浮ついたり軽率だったりという感じもいっさいなく、単なる認識、単純な事実を明かしたというだけに聞こえた。

 

モスキャップ(ロボット)のためらい

物語終盤で、モスキャップは故障する。それは小さなパーツで、取り替え可能なものだった。壊れたパーツを交換するかどうか(放っておけば寿命は短くなる)。

テクノロジーで身体を補完することに慣れているわれわれニンゲンには、「え、そんなに悩むポイントなの!」ってポイントがおもしろかった。

 

ちょうど先月読んだこの本も思い浮かべながら。

 

「アナタはアナタの身体なんですか、それともアナタの身体でないんですか?」

混乱するモスキャップに、その両方で、そのどちらでもない、と答えるデックス。

 

「それでは……アナタの身体はアナタであると同時にアナタではない」

 

「では、身体と自己のあいだのどこに線を引くんですか?」

 

テクノロジーがどんどん発展していくワレワレ読者の現実世界でも、「ワタシという存在の境界線」は考え直すべきテーマなんだ。

 

自然の描写、人々の関わり、悩みに向き合う様子に癒やされる

うまいこと管理/共存した「エコ」な暮らしぶりの描写が、ま〜癒やされるのよね。

ワゴンでキャンプする様子とか、車内にたくさんストックされたハーブやお茶、調合の様子、訪れる村で、お客さんたちにあわせたブレンドのお茶を出してる様子も、悩みを聞いてあげて、ふぅーっと緊張が抜けていく様子も、癒やされる。

 

「疲れた理由なんてなくてもいい。

休息や安らぎを”勝ち取る”必要はない。

あなたはただそこにいるだけでいいんだよって。

どこに行ってもそう言ってた」

 

それはデックスの信仰の核心で、本心でもある。

だけど・・・

 

「でもそれが本当だとは思えない。

ほかのみんなにとっては本当のように思えるけど、わたしにはそうじゃないの。

自分はそれ以上のことをしなければならないように感じてしまう。

それ以上のことをしなければならないように感じてしまう。

それ以上のことをする責任があるように」

 

全くもって違う世界観を持つデックスともスキャップが、同じ問いの答えを求めて旅をする。

ロボットとわたしの不思議な旅。

 

ふわふわとしたファンタジックな不思議じゃあなく。わけのわからない幻想的な不思議でもなく。理屈が通らない不思議でもまったくなく。

 

そうだ、WONDERワンダーとしての不思議!

好奇心、喜び、驚き、そして不安。そんなものがこめられた「不思議」センス・オブ・ワンダーを感じる物語。

 

 

年末年始のバリ島旅行、行きと帰りの飛行機で読めたのも、よかった。

 

改めて思ったけど・・・

本ってさ、印字されている中身はみんな共通だけど、読書の背景って様々だよね。その本を手に取った経緯とか、さらにそのうしろにあるワタシのこと、ワタシの中で見つけた動き、どんな場所でどんなふうに、どんな読み方をしたのか。

 

読んだあとの「感想」とか「意見」もおもしろいけど、そういう「背景」の違いについて聞いてもオモシロイだろうな。

 

そういう「本に印字された内容」以外にも世界を開いた読書会を・・・って去年の後半に構想していたけれども(笑)いやぁ、余力足りず、一旦保留になっております。

 

↓読書会をまた企画しようか、とおしりを持ち上げたときのブログ

kotokotoba.hateblo.jp

 

そしてまた、重たいおしりはドスン!!

しかし↑の記事を読み返してみたら、「そんなことにも悩んでいたなぁ!!」と新鮮な気持ちになった。

 

「好きなことに没頭する」エネルギーの回復力、すげえよ。

子育てママズは、エネルギー(時間)がなくてできない、じゃなくて、エネルギーを復活させて時間を生み出すために、好きなことすべきだと思う。