ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」

 「思想」とか「哲学」が本領を発揮するのは、そのスケールを自分サイズにフィットさせて、自分の世界に結び付けられたとき。

 

 

「あれ、ここなんのはなししてるの??」って戸惑う部分も多かったけど(笑)ソシュールで始まる6人の思想家たちの「運転方法」をなぞる現代思想の入門本、おもしろかったぁ!!!

 

コトバは「ラベル」じゃなくて「境界線」

コトバの仕組みを「関係性」の中に発見した偉大なる言語学者ソシュール

モノがあって、それにつける名前(コトバ)がある・・・んじゃなくて、関係性の中で意味のあるものとして浮かび上がらせるための「輪郭」なんだよ、ってこと。

 

自分の頭の中に「考え」がもともとあって、それをコトバで表現して外に出してる・・・ような気がするけど、考えとコトバはどっちももやもや~んって一緒に漂ってて、うまいことフィットしたところが浮かび上がって、コトバとして発せられている。

そんなハナシだった気がする。ざっくり(笑)

 

特に興味深かったのは、世界に輪郭を与える方法としてコトバが大きな役割を担う前の段階。コトバを覚える前の赤ちゃん。彼らは身体感覚で世界を把握してる。世界を把握することで、同時に自分の身体っていう世界じゃない側(自分の存在)を把握する。

 

感覚の違いが世界の輪郭だった。

それが、意味の切り取り方の違いが世界の輪郭にとって代わっていく。

 

コトバは輪郭を切り取る標識のようなものだから、それ自体に「意味(そのものの存在)」があるわけじゃない。ここんところ表現が難しいけど。

 

これをうまいこと表現してるなって思ったのが、鈴木大拙の本で語られていた「月と指」のハナシ。

 

 

月を示すために指をさす。

その指は月を意味しているけど、指は指で、月じゃない。

 

「コトバ」は何かを意味しているけど、コトバそのものは意味とは全く別の存在。たまたま対応させた「ルール」とか「習慣」ってだけで。

 

儀礼のアクションもそう。ソシュールの章で9回お辞儀をする中国の例が出ていたけど、これは同じ文化を共有するメンバーで決めた「最高の敬意を表す」ルールが9回のお辞儀ってだけで、おじぎっていう行為そのものに価値があるわけじゃない。

 

「狂気」と「正気」も、優劣とか価値は言葉そのものにはなくて、ただ「差異」があるだけなんだよね。その差異をどこに見出すか、とか、その評価や価値がどれほどのものかってのは、それを使う社会集団のルールで決まる。

 

ほんまのメッセージは作者じゃなくて読者にある

ロラン・バルト。文学批評って、作者の思想とか生い立ちとかそれを書いた経緯に注目するよね。そこに「特定の意味」を見出そうとする、「正解」がそこにあるって思うことを痛烈に批判しているのがこの人。

 

意識的に盛り込んだメッセージはそりゃあるだろうけど、必ず意識化されていないテーマ(盲点)がある。文学は閉鎖系ではなく複雑系だ!特定の意味に収斂していくんじゃなくて、いかに多くの意味が深堀りできるか、そうやって見て行こうとしたのかな。

 

あれだ、色んな解釈とか考察が生まれる作品が名作だって言われるやつ?

 

書き手の生み出した作品(テクスト)は、糸くずのかたまり、織物みたいなもの。意識的に編み込んだメッセージだけじゃなくて、無意識に引用している「意味」がたくさんある。というか、究極は全部引用やで、って。

 

終わることのない絡み合いを通じて自ら生成される

 

糸くずの例えが好き。

絡み合った糸くず、複雑なシステムそのもの、その全体像を見るべし、と。私ね、得技というか趣味と言うか占星術っていう読み物をしてるんですが。結構聞かれるの。「生まれてきた本当の意味はなんでしょう」とか「私の持って生まれた使命はなんでしょう」みたいな。

 

ロラン・バルト流に言えば、「あんたの使命、人生の意味は、終わることのない絡み合いを通じて自ら生成されるんです」ってところでしょーか。私は根元の一点に「究極の意味がある」とは全く思ってなくて。それこそ寄り集まった糸くずの全体像を見ようよ、それがオモシロイんだからさ、って思うのよね。

 

テクスト(作品)の統一性(つまるところの意味、真理)は書き手ではなく読み手にある。うんうん、そうだなーと唸る思想でした。

 

「力」に実体はない。システムが「力」なのだから

監獄パノプティコンから、システムが人の行動を規定して調整するって仕組みを見つけたミッシェル・フーコー。権力ってやつは、特定の誰かとか組織が「持っている」もんなんじゃなくて、社会そのもの、システムそのものに浸透しているルールとか強制力が正体なんだぜ、ってハナシ。

 

バーチャル・リアリティ、感染症に対する社会のシステム、なんだか今の社会のハナシをしてるみたいでゾゾっとした。

 

実は自然な反応じゃなくてルールに則ってるだけ

社会そのものもコトバの違い同様に、それぞれに優劣は無くて差異があるだけ、って言ったのがレヴィストロース。この本だとそのあたりはあんまり触れてなかったかな。

 

親子や親族の関係性だとか、社会の中で見えてくるいろんな「関係性」も、システムとかルールに裏付けられて無意識にそれに従ってるだけなんじゃない?ってハナシがメイン。あと、ニンゲンの本能は「交換」にあり、って。

 

情報も交換するっていう動きに価値があるわけで、情報そのものに価値があるわけじゃない、って視点がにゃるほどーだった。「持ってる」だけじゃなんの価値も生み出せない。

 

君は自分の隠れた「抑圧」に気付けるか

精神分析家のジャック・ラカン。自分の基準で相手を見てると、自分の「抑圧」によって見落としているものがあることに気付けないよね、ってハナシだったかな。

 

不快な状況、「抑圧」を敢えて繰り返し再現するのはなぜか?これは幼児のいないいないばあとかかくれんぼの例に通じるけど、あの「いつもダメ男とばっかり付き合ってしまう」的な例も当てはまるんじゃないだろうか。

 

幼児の例だと、無力な受動者からそれを作り出す側、能動者になることでコントロール権を握って安心したいって心理で解釈されてる。これ確か、名越せんせのゲーム実況で聞いたなぁ。

 


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人は幻想で人を見る

オリエンタリズム」、東洋らしさってのは、西洋が西洋らしさを感じて満足するためにつくられた幻想なんじゃい、って言うたのがエドワード・サイード

 

西洋とオリエンタリズム、って捉え方についてはたしかこの本の前書きで引用されていた部分が分かりやすかったな。 

 

もう、レヴィストロースあたりから読むのがきつくなってきて・・・(笑)あれ、それ前の項目とどう関係あるの??ん、今なんのハナシしてるの??みたいな感じで集中途切れまくりだった。

 

「思想」をコンパクトにまとめようとすると、そうなっちゃうのかな。

 

「意味」の在り処

 6人の思想家でなんとなく共通しているのは、本体はどこだ、みたいなハナシかなぁ。ソコに実体はないぞ、あるのは輪郭だけだ、みたいな。こういうのを構造主義っていうんだって。

 

というわけで、次はこれ読んでみたい。

 

「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」

 

具体的にどう活かすかって、それがムズカシイところなんだけど。私は今趣味の分野でコレをあてはめて「ほうほう」と分析を試みてる。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書