昨日、読み始めた本。
九鬼周造の哲学に触れられている部分があって、かの哲学者が考える《偶然性》についてchatGPTに手伝ってもらいつつちょっとメモ。
九鬼周造(1888–1941)は、日本の哲学者で、特に「いき」の美学と呼ばれる概念で知られています。彼の哲学は、西洋の哲学と日本の伝統的な文化・美学を融合させたもので、独自の視点から日本の美意識を理論化しました。
有名なのは「いき」の考察。
息?粋?
『いきの構造』は青空文庫にもあるけど、現代語で解説付きの本も出てた!これも読む本リストに追加。
『急に具合が』の中で触れている九鬼周造の思想《偶然性》については、また別の本『偶然性の問題』『偶然と運命』が本命なんだけど、これは青空文庫では作業中書架の中。
九鬼周造の考える<偶然性の三つの類型>
(1)絶対的偶然(Absolute Chance)
完全に予測不可能で、原因や理由が一切ない出来事。この偶然は、理論的には完全な不確定性を持ち、何も予測することができない状態です。九鬼はこれを「カオス的な偶然」として位置づけています。
(2)相対的偶然(Relative Chance)
一見すると偶然に見えるが、実際にはある種の原因や条件が背景にある場合。たとえば、ある出来事が偶然に起こったように見えても、それは実際には特定の原因や状況が揃った結果であるというものです。
(3)主観的偶然(Subjective Chance)
人間の認識の限界により、偶然に見える出来事。人間の知識や理解が不完全なため、ある出来事が偶然としか捉えられない場合を指します。
(1)絶対的偶然(Absolute Chance)
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例1: 稲妻が特定の場所に落ちること。
- 自然現象である雷が特定の場所に落ちることは、気象学や物理学の知識である程度予測はできますが、実際にどの地点にいつ落ちるかを完全に正確に予測することは不可能です。この場合、雷の落下は「絶対的な偶然」として捉えられます。
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例2: 異星人が地球を訪れること。
- 地球外生命体の存在や行動は現代科学では確認されておらず、またその訪問の可能性も未知数です。もし異星人が突然地球にやって来るようなことがあれば、それは予測も制御も不可能な「絶対的な偶然」といえるでしょう。
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例3: 自然災害の突然の発生(例:巨大な隕石が海に落下し、津波が発生する)。
- 巨大な隕石が海に突然落下し、それによって津波が発生するような状況は、ほとんど予測できない出来事です。このような出来事は、完全にランダムで予測不可能な「絶対的な偶然」です。
(2)相対的偶然(Relative Chance)
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例1: 交通事故の発生。
- 交通事故が起こることは一見すると偶然のようですが、その背景には多くの要因(ドライバーの不注意、悪天候、道路状況など)があります。これらの要因が重なった結果として事故が起こるため、「相対的な偶然」となります。
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例2: 授業で急に指名されること。
- クラスで教師がランダムに生徒を指名するような状況も偶然に見えますが、実際には教師の心の中での意図や、生徒の態度、過去の発言頻度などが影響している可能性があります。したがって、これは「相対的な偶然」です。
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例3: 知人に道でばったり会うこと。
- 知り合いに道で偶然会う場合、それは偶然に見えますが、同じ地域に住んでいる、同じ時間帯に移動しているなどの背景条件が重なっているため、「相対的な偶然」と言えます。
(3)主観的偶然(Subjective Chance)
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例1: 偶然に自分の誕生日と同じ日付に重要なイベントが重なること。
- ある人にとって、自分の誕生日と同じ日に特別な出来事が重なることは「偶然」に見えます。しかし、それはその人にとって主観的に特別であって、実際にはその出来事が起こる日がたまたまその日であっただけです。
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例2: 大学の入学試験でたまたま好きな分野の問題が多く出題されること。
- 受験生にとっては幸運で「偶然」に感じられるかもしれませんが、実際には試験問題の選定には何らかの意図やカリキュラム上の理由がある可能性があります。ここでの偶然性は、その受験生の主観的な視点に依存しています。
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例3: 新しいレストランでたまたま昔の友人と再会すること。
- あるレストランに偶然入ったときに、昔の友人と出会うことは「偶然」に見えますが、その友人も同じ地域に住んでいたり、そのレストランを選ぶ理由があったりする場合もあります。これもその人の認識の中で偶然と感じるだけであり、「主観的な偶然」です。
正直、この3つの偶然の例に挙げてもらったケース、いまいちぴんとこないんだけど・・・(^-^; 私のもんやりとした理解だと、偶然レベルをフロア分けしてるってことかな。上のまとめとは逆順になるけど
レベル1:「自分個人の視点に限定しているから、その原因と結果の結び付きがわかんない」ってレベルの偶然(主観的偶然)
私からみると因果関係が説明できない「偶然」のできごと。でもその因果関係が理解できないのは、私の視野・思考・捉え方の守備範囲によるもの。
レベル2:因果関係が重なりあった一点に起こった出来事。その出来事事態が起こる直接の、単一の原因と結果は見出だせないレベルの偶然(相対的偶然)
因果関係を視野におさめる守備範囲をもうちょっと広くしたレベル。
レベル3:完全にランダムで予測不可能なレベル
これ、レベル2の延長線上な気がするけど・・・🤔予測の知識の限界点ってことよね。
偶然と自由意思
偶然性の問題を自由意志の問題と関連づけて考えています。
偶然性が存在するからこそ、人間は完全に決定された存在ではなく、自らの行動を自由に選択する余地があるという見方です。偶然性がない世界では、すべてが原因と結果の連鎖によって決定され、自由意志も意味を持たないと考えられます。
世界には偶然が含まれており、それが人間の選択に自由の可能性をもたらすとしました。偶然は、因果的に決定されない出来事の領域を開き、そこにおいて人間は選択を行うことができるのです。
「たまたまそうなった」から始まる、これまで見えてなかった可能性。その可能性に向かう選択しが偶然性からもたらされるんだよ、ってことかな。
彼は、存在の本質を確定的なものではなく、偶然的な要素が常に絡み合う動的なものであると考えました。つまり、世界や人間の存在は固定されたものではなく、偶然性によって常に変化し続けるものと捉えています。
そうそう、『急に具合が』の中で、選択を「無限に分岐する可能性」と表現してて。それって、ボルヘスだなぁ!!
この短編集の中の、『八岐の園』のイメージ。
あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。
およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は──同時に──すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。ここから例の小説の矛盾は生まれているのです。
分岐し、収斂し、並行し、交差し、ふたたび分岐、拡散してゆく時間の目まぐるしい網目
九鬼周造は偶然性のなかに、選択の可能性、可能性の展開を見た。そこに創造性あり!と。創造性ってのは、芸術とか美とか、そういうはなしにつながってくる。
偶然性と美
九鬼はまた、偶然性に美学的な側面を見出しています。
特に彼の「いき」の美学において、偶然は「予測できない変化」や「期待の裏切り」といった要素として機能し、それが美の一部を形成すると考えました。この視点では、偶然性は芸術や人生における驚きや新しさをもたらす要素として重要です。
それこそ、レールを外れる衝動ってやつ!
想定されたこうすれば→こうなる、って因果のレールから外れたところ。偶然。その偶然のエアポケットにすぽんとおちたとき、「さあどうなる?」って経験、まなざし、創造性が生まれる。
彼は人間の自由意志が「絶対的」なものではないと考えます。人間は多くの外的・内的条件によって制約されており、その中での自由は「限定された」ものであるとしました。
たとえば、経済的な状況、社会的な規範、身体的な限界など、さまざまな制約が人間の自由意志を狭める要因として存在します。しかし、これらの制約の中でも、偶然の要素が人間に選択の余地を与え、その制約を超える可能性を秘めていると九鬼は考えました。
人間が偶然的な状況に直面したとき、それにどのように対応し、どのような選択をするかという点で、創造的な行動が求められると考えます。
つまり、自由意志は単に「選択する」ことに留まらず、その選択が新しい可能性を開くための創造的な行為であるという視点です。この創造性は、偶然と必然の間で新しい意味や価値を生み出す力として捉えられます。
彼は自由意志を「間(あわい)」の中での対話的なもの、制約された中でも創造的な力を発揮するものと捉えています。
これは、単なる選択の問題ではなく、偶然と必然の間で新たな可能性を切り開く人間の能力を示すものであり、九鬼の哲学全体における重要な要素の一つです。
「制約された中でも創造的な力を発揮するもの」ってのが、スピノザの「自由」を思い浮かべるね。
九鬼周造とスピノザの「自由」
といっても、すぴのざは大前提として、「偶然なんてものはねぇ」っていう決定論的なまなざしで世界を見てるんだけど。
彼にとって「偶然性」とは単に私たちが原因を知らないか、理解できない出来事に対する無知を意味します。
たとえば、九鬼が提案した「偶然の出会い」や「偶然の発見」も、スピノザにとってはすべて必然的な因果関係の中で起きている出来事であり、真に「偶然なもの」ではありません。スピノザは、私たちが出来事の背後にあるすべての原因を理解できないために、それを「偶然」と見なしているに過ぎないと主張するでしょう。
スピノザからすれば、「絶対的偶然」なんてもんはなく、全部「主観的偶然」ってことなのかな。単に、自分が理解できる因果関係のなかで起こっていないってだけで。
あらゆるものが、なるべくしてなる。おこるべくしておこっている(なんらかの原因がある)。それなりの原因をもっている。つきつめれば、いっちゃん最初の原因は「神」でしかない、ってのがスピノザ。
一般的に「自由意思」というと、自分が出発点になるってイメージで使われるから、それに対する批判だよね。きみの行動、意志、それも純粋な出発点にはなりえない。何かしらの原因が働いてるんだから。
まずは必然の枠組みをしっかり理解すること。自分が埋め込まれている、世界をかたちづくる(出来事を生み出す)チカラの動き、エネルギーの動き、流れとか型みたいなものを、ちゃんと把握すること。
可動域を把握して、動かせるだけ(動きたいように)動かすことができる。それがスピノザのいう自由。設定された可動域を越えようとあがくことじゃなくてね。
でも、人間の「経験」という視点におとしこめば、それは九鬼周造のいうような「分岐する選択」の創造ともいえるんじゃないかな。
九鬼周造: 九鬼は、意志や行動が外的な偶然性に影響を受けると考えながらも、その中での創造的な選択や自由を強調します。彼の哲学では、偶然的な状況が自由意志の可能性を広げる要素として機能し、意志はその「偶然性」との相互作用の中で生じるものです。
スピノザ: スピノザは、意志や行動が外的な要因に左右されることを認めつつも、それが必然的な因果関係に基づくものであると考えます。彼にとって、自由とは偶然性に依存するのではなく、必然性の中に自らの位置を理解し、理性に従うことです。したがって、スピノザの自由意志の否定は、外的要因に従属していることを受け入れ、そこに自由の意味を見出すという点で九鬼とは異なるアプローチをとっています。
自分のコントロール外にある外的な影響を、必然と見るか偶然と見るか。
自分のデスクトップ画面に現れるたくさんのフォルダのアイコン📁、それは誰かが設定したものかもしれない。そのうちひとつをクリックすると、そこからまたたくさんのフォルダが展開📂する。
ランダムに登場するフォルダの、どれを開く?それを決めることを「自由意思」と呼ぶのが九鬼周造。そこから飛び出すまたいろんなフォルダ、始まるアプリケーションが偶然×選択の生み出した「創造性」なわけで、クリックする行為(自由意思)は創造的行為だってこと。
いやいや、そのフォルダを準備したのも、そこから何がでるかも、全部プログラムとして決まっているんだから、偶然とはいえないよ。ひ、つ、ぜ、ん。そういうシステムなの。
そのシステムを把握して、そのプログラムが提供しているものを理解して、理性的に行動するのが「自由意思」。これがスピノザ。
世界との向き合い方は、スピノザの思想が好き。
でも自分の活動、行動に「美」を見出だす九鬼周造の思想もしびれる。
必然性(宇宙、自然の理)を理解して、受け入れた先に自由がある。
偶然性を基盤にして、自由がある。
反対なようでいて、私はどっちもしっくりくる。
いまの私が採用しているのは、必然性を受け入れるスピノザの思想。これは私の傲慢さにペシッとカツをいれてくれるから。大前提として、「私は運命の支配者ではない」ってこと。
「わたしはわたしの運命の主人」
「わが魂の船長はわたしである」
ウィリアム・ヘンリーのこの言葉を挙げて
これほど傲慢で、とんちんかんなことはない、とハクスリーは言う。
(中略)
「わたし」に運命を支配することはできない。
だってわたしは「もっとも口うるさい船客のひとり」にすぎないのだから。船長の食卓に招待されるほどの身分でもないし、魂の船がどんな形で、どんなふうに動き、どこへ向かっているのか知らされてもいない。
当然、それは外部の原因に常に流されている、諦めるってわけじゃなくて。
スピノザは、その「知らされていない」魂の船がどんな形で、どんなふうに動き、どこへ向かっているのか、自ら知る努力をしろ!理性的な努力を!と言うかもしれない。
そこでどう立ち回るか、いかに自分というフレームの中で自分を発揮(表現)できるかってところに、「真の自由」があるわけで。
だからこそ、一生懸命ジブンを生きよう!っと楽しめるわけで。
そんでもって、その楽しみってやつが、九鬼周造のいう「偶然性×選択(彼はここを自由意思と呼ぶ)」のコラボレーション、創造性にあるんだな。
永遠に分岐する、八岐の園。
スピノザのいう必然性が、外から見た一点だとするなら、九鬼周造のいう偶然性は内から見た一点って言えるんじゃない?(すぴのざはその一点を偶然と見るのは「無知」というけど)
私は私から見た一点を生きるしかないんだから、その一点もダイジだよね。
なんなら、その外から見た必然的な一点と、内から見た偶然の一点の、ふたつのまなざしがばちっと合うところに・・・
必然と、偶然の接点に!
無限の永遠(静)と、一瞬一瞬の時間(動)の接点に!
「今」が経験されるんだよね。