タイトルも、表紙のイラストも、本の1ページ1ページに仕込まれた仕掛けも、全く持って「ワタシ、これ、好き!!!」なデザインでした。
読書論、読書のハウツー、ではなく。「読書の実用論」と紹介されて入るけども。いや、本を愛し、言葉を愛し、そして悩むひとりの読者、創作者による言葉論・・・みたいな印象。
表現のあちこちがステキで、実用書というよりはむしろ文学作品、いや詩を読んでるみたいな心地よさ。
最後の章(章立てなんてされてないのだけど、あとがきの直前部分)で「本は読めないもの」に再び触れる。読んでも忘れちゃうし、わかんないこともあるし、全然たくさん読めてるわけでもない。
でもね、本を読むって、こういうことなんじゃないかな、って。
だが読書の<内容>が水だとすれば、ひとつの脳にあまり多くの水を溜めてもいいことなんて、ない。水はよどみ、やがてダムは決壊する。そもそも容量が小さいのだから。
あるいはダム湖にブラックバスみたいな獰猛な外来魚(その名は理念?)が繁殖し、もともと棲んでいた少数のネイティブな小魚(子供時代の読書と経験から得られた小さな結晶や形象たち)なんか食いつくされてしまう。
水はどんどん海という共有場に向かって流れてゆけばいい。あるいは蒸発し、雲になればいい。流量を誇ったり人のそれと比べたりするのはまったくばかばかしい。われわれの関心は、流れる水によりどんなふうに岸辺の地形や植生が変わり、その周囲にどんな新しい調和と生命が生まれるか、にある。
水が刻一刻と作り替える環境を、生きた相で捉え、それを水系そのもの(つまり<私>としばしば呼ばれるこの生きたまとまり)の生存のために役立てること。水系自体が溌溂と生きている状態を保つためには、当然、山から海にいたる流れの全プロセスにおいて、流域の岩や土、フローラとファウナのすべてに対する、関心と気遣いが必要になってくる。
書物の森が水源だとしたら、そこから賢く、自分にほんとうに必要なだけの、水をもらうことにしよう。ゆきつく先が海だとしたら、そこにささやかな、ありあわせの素材で作った小舟を浮かべてみよう。
驚くべきことに、ぼくらはこの小舟に乗って、はてしなく広がる大洋へと出発することができるのだ。そして大洋にはたくさんの本の島が点在し、島にさしかかるたび、古いともだちや知らない島人たちが、海岸から手を振ってくれる。
その希望に支えられて、ぼくらはこの土地で、この都市で、生きている、生きてゆく。
読書の目的は内容の記憶ではない。そのときその場で本との接合面に生じた一回きりのよろこびを、これからやってくる未来の別のよろこび(読書によるものとはかぎらない、生のいろいろな局面でのよろこび)へとつなげてゆくことだ。
読み終えて、本がまた読みたくなる。
これまで出会った本を思い浮かべたくなる。
本という島を巡り出会うぼくたち。
あぁ、フィクリーさんを思い出すなぁ。
この一冊から、また接ぎ木され、葉が茂り、ワタシの森の一部になって、新たな生態圏が生まれるんだろうな。
そうそう。著者の管啓次郎氏は、やっぱり詩人、翻訳者だった!『星の王子さま』を翻訳した人なんだね。詩集も読んでみたいなぁ!最近、詩の朗読にブワッと感動して、興味津々なのです。なにか一冊、生の本で購入したいなぁ。
(シンガポールの書店で日本語の本を買うと倍以上の値段だから、なかなか買えない・・・)
長田弘さんの詩集がほしい!