ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

無作法なまでに「じぶん」であること、ただそれだけ

図書館で借りた何冊かを読み終えて、Kindleでなにか新しい本を買いたいなぁと悩みに悩み。売れてる本としてオススメされるのはビジネス系、自己啓発系ばかり。がっつり別の人間に憑依できる小説の世界にも、今はなぜか入る気分じゃない。

 

もう、本なんて読まなくていいや、と諦めて、山盛りにダウンロードしたサンプル本に目を通してたら・・・

 

 

「お」とアンテナがぶるるんしたこの一冊。

 

長田さんの詩集がほしいけど、こっちの紀伊國屋では見つけられなかった。取り寄せるにもとんでもない値段になってしまうし、Kindleでは読みたくない。そんなわけでエッセイを見つけてサンプルをダウンロードしてたんだ。

 

↓詩って、ものすごくオモシロイ!!!

と気づいたのが、長田さんの詩がきっかけだった。

kotokotoba.hateblo.jp

 

サンプルには『ノンセンスのおくりもの』というエッセイの一部が収録されてて、それを読みながら「マザーグースだな!」と。子どもの英語教育分野に馴染み深い私にとって、マザーグースはすごくデカイ存在。

 

mother goose

 

(道案内とか、ショッピングとか、「実用性」「インスタントに使えるかどうか」を学校の言語教育にまで求められる風潮だけども、敢えてノンセンス。子どもは特に!!)

 

ノンセンスの存在は、人生は生きるに値するという証明不可能な信念ーこれは全面的に受け入れるか、さもなければわれわれはみじめに滅びるしかないのだーそういう信念を証明する一番の近道である

 

長田さんのエッセイ集『私の好きな孤独』では、オルダス・ハクスリーの言葉を引用したこの文でサンプル部分は終了。

 

オルダス!オルダスといえば、新世界!!!

 

新世界は冒頭部分しか読んでないけど、オルダスの講演録↓は全部読んだよ!教育、社会に対する視点(多次元的に、可能性を見る視点)について、「ああ、なるほど」と思うことがたくさんあった。

 

 

最近読んだばかりだったから、嬉しくなって。

そんでもって、同じく最近読んだばかりだったサンプル本のこれ↓

 

 

第一章がマザーグース、ノンセンス詩をテーマにした内容だったから、これはこのタイミングで読む流れだな!!と思って2冊まとめて購入。

 

『読むという冒険』の第一章を読んでから、長田さんの『ノンセンスのおくりもの』を読んだ。ぴょんぴょん跳ね回るように読書するのも、楽しいね♡

 

マザーグースが日本に持ち込まれたとき、翻訳した人のなかに竹久夢二がいたことにおどろき!好きなんだ〜夢路の美人画

 

 

20130417_Yumeji_Takehisa 2

20130417_Yumeji_Takehisa 5

 

翻訳もしてたんだね。知らなんだ。

 

「誰がコックロビンを殺したの」の訳が「誰(た)そ、駒鳥を殺せしめしは」って日本語にしびれる。古い日本語訳も読んでみたい。

 

 

言葉は、音の部分と意味の部分があるけど、「言葉は記号(ツール)」って大人の主張をひっくりかえしちゃうのが、ノンセンス詩の(そしてそれが長い長い時代を生き抜く言葉だったってことの)おもしろいところなんだよね。

 

理性(常識、理屈)の核である言葉でもって、その楼閣をぶちこわすオモシロサ(笑)え、なんでなん?いやいやアリえんでしょ、って思わず笑っちゃう。ときにゾッとしちゃう。意味はめちゃくちゃ、意図もさっぱり。

 

でもその音が、耳に届く音の心地よさ、口触りの心地よさが、ニンゲン自身の持つ五感の世界を思い出させてくれる。そこから引き離すのが言葉の世界(抽象的、記号の世界)なのにね!

 

これぞ、コトバのおもしろさ。

 

コトバの便利さ、有効性、生産性じゃなく・・・

身体的な生の感覚、心地よさを思い出させてくれるコトバ。

 

ナンセンスのなかからセンス(常識、共有するルール)を笑いで以て確認し合うあそび。そのめちゃくちゃな世界観が、そんな世界観に一瞬迷い込む感覚が、好き。

 

おそろしく単純で、おそろしく矛盾していて、おそろしくまちがっていて、おそろしくいいかげんで、すこしも物事をわきまえていなくて、ヘマして生きているものたちの生きようを、ノンセンス詩は、しかも楽しい噂として読むものにつたえる。

ばかばかしいことをばかばかしいほど真剣に。

根も葉もない言葉で花も実もある噂をつくりあげて、「ほら、こんなやつがこんなことをしてこんなところにいたんだ」というふうに。

 

 

長田さんはノンセンス詩を「うわさ」に例える。

注目されるのは真実かどうか、役に立つ情報かどうか、じゃない。聞いておもしろいか、話しておもしろいかってこと(笑)

 

ノンセンス詩に登場する主人公はきまって、だめなやつなんだ。変人、奇人、現実世界じゃぜったい主役なんてまわってこないような弱者、見棄てられたもの、忘れられたものたち。

それでも全然湿っぽくも恨みがましくもなく、いきいきと、「わたしはわたし」ときっぱり言い切る不思議な明るさ。

 

そんなノンセンス詩を見て長田さんは、

必要なのは高揚した言葉やたいそれた夢によって生きるということなのではない。

無作法なまでにじぶんであること、ただそれだけなのだ。

という。