ことばのおもしろさ、というかニンゲンのおもしろさ、を探求する学問がある。それが民俗学。
以前読んだ本『21世紀の民俗学』が面白かったから、新しいものも読んでみたら、私的大ヒットだった。エッセイっぽいから、学術系イヤな人でも「おもしろ!!」って読めると思うよ。
あとがきで、著者が自分の本を評している通り
「滑稽で、ロマンチックで、生真面目」な本
「死者の民主主義」ってどういうこと?ってタイトルなんだけど。
別に政治的なハナシでもオカルトでもない本です。
我々は民主主義の世の中に生きてるわけだけど、民主主義が採る「ワタシタチの声」ってのは「今現在生きている、生者だけの声」でイイんかいな?っていう思いが込められているタイトル。
死者、つまり過去生きていた人々。今の価値観に至るまでの、先祖の願いや希望。それからまだこの世に生まれていない、未来の命。過去も未来も視野に入れた「ワタシタチの声」に耳を傾けようぜ、ってこと。
それをどこから拾い上げるのか?で、注目したのが妖怪とか霊とかいう不思議な物語。
河童や天狗、ザシキワラシといった妖怪は、災害や戦争から生き残った人びとのうしろめたさの感情が伝承されたり、霊的存在の集合をイメージ化してきたものではないか
妖怪が存立する理由のなかには、腑に落ちない感情や、割り切れない想いを合理化する機能があった。たび重なる災害、貧苦や労苦、身近な人びとの死を乗り越えて感情をコントロールするために、妖怪や怪異が「発見」された。
新しい妖怪が「発見」されるのか?という切り口でAI(アレクサやアイボ)、SNSの炎上について書かれているのが今どきネタでオモシロイ。
それから信仰とは切り離せない、「宗教」という存在の捉え方。
ちょうど昨日、長崎にローマ法王が来県して盛り上がっていたところ。
長崎、宗教、といえば、カクレキリシタン。
遠藤周作の小説『沈黙』、そしてこの小説を元につくられた映画『沈黙』を題材に、日本人の信仰の「縮図」として潜伏キリシタンが挙げられている。
これ、私今年の夏映画を初めて見て、めちゃくちゃ衝撃を受けた。そして見た人の感想も、それぞれ全く違うところを見ての評価だったのにまた衝撃を受けた。エグい描写に免疫がある人しか見れんぞ。私は苦手なもんで、シンゾウバクバクの涙ドロドロ状態になった。
小説を読む勇気はない。
けど、潜伏キリシタンを悲劇のヒロイン、単純にピュアで美しい被害者(正義)vs弾圧する側(悪)という単純な描かれ方はされていない。そういう深さは、おもしろかった。
潜伏キリシタンは、なぜ隠してまで信仰を続ける必要があったのだろう。
その理由としては、先祖代々の伝統の継承を非常に重んじたこと、受けついできた習慣を放棄すると罰を受ける恐れがあると信じたことなどが考えられる。さらに、交通の便が悪い海辺や離島という集落の立地条件、先人が信仰を命がけで守ってきたことにたいする崇敬神などが入りまじり、日本列島の固有信仰、民間信仰、新旧の外来信仰が並存し、変化しながらも、大切に伝承されてきたのであった。
宗教の持つ意味が問い直されている今日、世界宗教と土着信仰の相剋を描いた作品としてはもちろん、二十一世紀を生きる私たちと相通じる、キリシタンの複層的な信仰観念念頭に置きながら、『沈黙―サイレンス―』を観ることをお薦めしたい。
長崎に生まれ育った友人の中にはカクレキリシタンに特別なシンパシーを感じる方も多いかもしれない。私は、よそのニンゲンであるからか、そういった感傷的な気持ちには全く共感できないし、むしろ『沈黙』を見て、弾圧した側のニンゲンが凝り固まった「悪」だとは全く思えず。やったことは許されない行為なのは分かるけど・・・。
被害者だ、加害者だと世界を固定したくない。
視野を固定せずに、白黒はっきりさせずに、上からマーブルを眺める視点を持とうとする学問が、民俗学と呼ばれるのかもしれない。

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別の言い方をするなら、それがあわいの力。曖昧さを受け入れる器。日本人が得意としてきたこの力を認めて、どんどん活かす時代なのかもしれない。