ことばのおもしろさ研究所

語学好きな母ちゃんが、子どもの言葉の成長と外国語学習の奥深さ、心に響いた本なんかを記録しているブログ。

イライラ☆マネージメント

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すぐイライラしちゃうけど、すぐ忘れちゃうの。忘れちゃうから、同じパターンを繰り返しちゃうんだよね(´;ω;`)

 

上の動画で紹介されてる、イライラログとHAPPYログをつけてみようかな!時間が取れそうなら、イライラの深堀りもできそう。

 

感情(イライラ)の原因は、全て自分にある。

他者や環境は、原因じゃなくてきっかけ。

 

感情の出どころ、イライラの原因を把握しておくってのは大事だ。それは「価値観(ニーズ、必要としていること、大切にしたいこと)」であって、「思考(思い込み、信念)」であるってこと。

 

出来事は、それが感情の直接の原因なんじゃなくて、自分のなかの価値観や考え方に触れたことてどんなリアクションを返しているのかってこと。

出来事と価値観の組み合わせが、不協和音なのか、ハーモニーなのか。それがどう聞こえてるのかってだけ。

 

出来事✕価値観(思考)=感情という反応

の中で、「価値観」の部分が自分では見えてないことが多い。ワレワレはどうしても、感情中心にしかものごとが見えなくなったり、出来事に囚われてしまいがち。注目すべきは価値観の部分なのに!!

 

だから、出来事を出来事としてだけ抜き出すってのはイイ。そして自分はどう感じたのか。どんな感情がその出来事を通して湧き上がってきたのか。

出来事と感情をきちんと分けて抽出できれば、価値観も見えてくる。

 

その価値観ってやつは、実はとってもシンプルなもんで。

見てほしい。聞いてほしい。

理解されたい。納得したい。

休みたい。安心したい。

喜びや悲しみを共有したい。

シンプルな欲求がわかれば、手のうちようもあるってもんさ。他人や環境に満たしてもらうことを期待(依存)するんじゃなく。

 

一昨年、手帳(トラベラーズノート)のブランクページにつくった『コーピングリスト』、あれもなかなかよかった。

お気に入りのもの、心地いい時間、大好きなことリスト。色鉛筆でイラストにして、開いただけで元気になるページ。

 

冒険の指南書〜物語という密林へ〜

〈読む〉という冒険 イギリス児童文学の森へ (岩波ジュニア新書 947)』のマザーグースの章と、長田弘さんのエッセイ『私の好きな孤独 (潮文庫)』の「ノンセンスのおくりもの」を併せて読んで・・・

 

kotokotoba.hateblo.jp

 

昨日は『冒険』の他の章を、読み終えました👏

章の順番通りに読んでも良かったんだけど、気になるタイトルから順に読んでみたよ。

 

全体を通して、「こんな読み方もできるんじゃない?」「いつもと違う視点で物語を眺めてみたら?」という「読む冒険」を提案する内容。

それは「筆者の意図は」とか「これはどんなメッセージが書かれているのか」ではなく!!

正解のない、決められたひとつの道筋があるわけじゃない、つまり冒険的な読み方。

 

物語のジャングルをかき分けていくかんじ。

そのジャングルを、上空から地理や植生を眺めてみたり、地中の根っこや葉の模様を丁寧に観察してみたり。

 

誰が、何が正解かっていう「考察」じゃなくてね。

物語そのものを楽しみ、物語の背景(その物語を生み出した物語)を楽しみ、更にその物語を読む人の中に生まれる物語を楽しもう、ってこと!

 

注目ポイントは、筆者と読者をとりまく時代背景はもちろん、言葉の使われ方。登場人物や出来事の描写、意図されているものもされていないものも、そこから「世界の切り取り方」ってやつが見えてくる。

時代や個人の価値観、信念・・・作者は何に影響を受けて、物語に何が映し出されていて、そして読者にどんな影響を与えるものだろうか。

 

解釈の押し付けや決めつけじゃなく、逆に「思い込みを外す」ってのが楽しむぽいんと。

私たちの「読み方」ってのは、案外「こう読むのが普通」「こう読まなければ」って思い込みが強いから。

 

「言葉の感度」をあげて物語を丁寧に読んでみる。

その「気づき」は、私たちの見ている世界をより大きく、細やかに、多層的に捉える視点をくれるかもしれない。

 

クマのプーさん』と戦争体験、『不思議の国のアリス』と産業革命、時代背景を重ねて見える立体構造が、オモシロイ!!

 

 

『アリス』は「時間」をテーマに「冒険」するんだけどね、その中で紹介されていた社会学者の見田宗介さんの文章が印象に残ってる。

 

 

私たちは時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか、お金と同じ動詞で考える。これは近代のTime is moneyの精神。

 

産業革命を境目に、働き方(労働)が変わり、時間との付き合い方が変わり、生き方が変わった。

それまでは、出来高(造ったものの量と質と納期)で評価されていた労働が、時間で量られるようになったからね。時間に支払われる対価+時間の規則⇨時間は守ることが大切!この価値観がどんどん浸透していった。

 

さらに鉄道で時間の短縮が可能になり、時間の「ムダを省く」感覚も。今もタイパ、タイパって言うもんね。時間はカネだ。資本主義は時間をも経済価値として呑み込んだ。

 

見田宗介せんせは、南米旅行を通して感じた時間間隔のギャップに触れてこう書いている。

 

彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものです。

もともとは、私たちもそうだった。

だって、いつでも心に心地の良い残像を残すのは、有効に「使われた」時間じゃなくて、ただ「生きられた」時間なんだもの。

 

 

時間との付き合い方ってのは、そのまんま人生の生き方。「時間」って私すごく関心のあるテーマ。

普段、せかせかしてるからね(笑)

毎朝、そして毎晩、息子をせっつきまわす、せっかちなかーちゃんなのよ。。。

 

効率よく(思い通りに)息子の行動をコントロールしたい!とか、必要最低限のことだけにエネルギー使いたい!とか、そういう考えで時間を「消費する」んじゃなくて、時間を「生きたい」なって。そう思うのです。

 

見田宗介せんせのいう、「上滑りしていない時間=上滑りしていない人生」を生きたい。

 

 

 

言葉の感度、精密さに磨きをかけるのもまた「訓練」!

kotokotoba.hateblo.jp

 

 

ただの日記、しずかなインターネット始めました♡

sizu.me

無作法なまでに「じぶん」であること、ただそれだけ

図書館で借りた何冊かを読み終えて、Kindleでなにか新しい本を買いたいなぁと悩みに悩み。売れてる本としてオススメされるのはビジネス系、自己啓発系ばかり。がっつり別の人間に憑依できる小説の世界にも、今はなぜか入る気分じゃない。

 

もう、本なんて読まなくていいや、と諦めて、山盛りにダウンロードしたサンプル本に目を通してたら・・・

 

 

「お」とアンテナがぶるるんしたこの一冊。

 

長田さんの詩集がほしいけど、こっちの紀伊國屋では見つけられなかった。取り寄せるにもとんでもない値段になってしまうし、Kindleでは読みたくない。そんなわけでエッセイを見つけてサンプルをダウンロードしてたんだ。

 

↓詩って、ものすごくオモシロイ!!!

と気づいたのが、長田さんの詩がきっかけだった。

kotokotoba.hateblo.jp

 

サンプルには『ノンセンスのおくりもの』というエッセイの一部が収録されてて、それを読みながら「マザーグースだな!」と。子どもの英語教育分野に馴染み深い私にとって、マザーグースはすごくデカイ存在。

 

mother goose

 

(道案内とか、ショッピングとか、「実用性」「インスタントに使えるかどうか」を学校の言語教育にまで求められる風潮だけども、敢えてノンセンス。子どもは特に!!)

 

ノンセンスの存在は、人生は生きるに値するという証明不可能な信念ーこれは全面的に受け入れるか、さもなければわれわれはみじめに滅びるしかないのだーそういう信念を証明する一番の近道である

 

長田さんのエッセイ集『私の好きな孤独』では、オルダス・ハクスリーの言葉を引用したこの文でサンプル部分は終了。

 

オルダス!オルダスといえば、新世界!!!

 

新世界は冒頭部分しか読んでないけど、オルダスの講演録↓は全部読んだよ!教育、社会に対する視点(多次元的に、可能性を見る視点)について、「ああ、なるほど」と思うことがたくさんあった。

 

 

最近読んだばかりだったから、嬉しくなって。

そんでもって、同じく最近読んだばかりだったサンプル本のこれ↓

 

 

第一章がマザーグース、ノンセンス詩をテーマにした内容だったから、これはこのタイミングで読む流れだな!!と思って2冊まとめて購入。

 

『読むという冒険』の第一章を読んでから、長田さんの『ノンセンスのおくりもの』を読んだ。ぴょんぴょん跳ね回るように読書するのも、楽しいね♡

 

マザーグースが日本に持ち込まれたとき、翻訳した人のなかに竹久夢二がいたことにおどろき!好きなんだ〜夢路の美人画

 

 

20130417_Yumeji_Takehisa 2

20130417_Yumeji_Takehisa 5

 

翻訳もしてたんだね。知らなんだ。

 

「誰がコックロビンを殺したの」の訳が「誰(た)そ、駒鳥を殺せしめしは」って日本語にしびれる。古い日本語訳も読んでみたい。

 

 

言葉は、音の部分と意味の部分があるけど、「言葉は記号(ツール)」って大人の主張をひっくりかえしちゃうのが、ノンセンス詩の(そしてそれが長い長い時代を生き抜く言葉だったってことの)おもしろいところなんだよね。

 

理性(常識、理屈)の核である言葉でもって、その楼閣をぶちこわすオモシロサ(笑)え、なんでなん?いやいやアリえんでしょ、って思わず笑っちゃう。ときにゾッとしちゃう。意味はめちゃくちゃ、意図もさっぱり。

 

でもその音が、耳に届く音の心地よさ、口触りの心地よさが、ニンゲン自身の持つ五感の世界を思い出させてくれる。そこから引き離すのが言葉の世界(抽象的、記号の世界)なのにね!

 

これぞ、コトバのおもしろさ。

 

コトバの便利さ、有効性、生産性じゃなく・・・

身体的な生の感覚、心地よさを思い出させてくれるコトバ。

 

ナンセンスのなかからセンス(常識、共有するルール)を笑いで以て確認し合うあそび。そのめちゃくちゃな世界観が、そんな世界観に一瞬迷い込む感覚が、好き。

 

おそろしく単純で、おそろしく矛盾していて、おそろしくまちがっていて、おそろしくいいかげんで、すこしも物事をわきまえていなくて、ヘマして生きているものたちの生きようを、ノンセンス詩は、しかも楽しい噂として読むものにつたえる。

ばかばかしいことをばかばかしいほど真剣に。

根も葉もない言葉で花も実もある噂をつくりあげて、「ほら、こんなやつがこんなことをしてこんなところにいたんだ」というふうに。

 

 

長田さんはノンセンス詩を「うわさ」に例える。

注目されるのは真実かどうか、役に立つ情報かどうか、じゃない。聞いておもしろいか、話しておもしろいかってこと(笑)

 

ノンセンス詩に登場する主人公はきまって、だめなやつなんだ。変人、奇人、現実世界じゃぜったい主役なんてまわってこないような弱者、見棄てられたもの、忘れられたものたち。

それでも全然湿っぽくも恨みがましくもなく、いきいきと、「わたしはわたし」ときっぱり言い切る不思議な明るさ。

 

そんなノンセンス詩を見て長田さんは、

必要なのは高揚した言葉やたいそれた夢によって生きるということなのではない。

無作法なまでにじぶんであること、ただそれだけなのだ。

という。