これまた本(物語)を巡る物語。
やっぱり…
物語論というか、創作者の中から別の世界が生まれて、侵食されていくようなお話が、私は好きなようだ!
物語が好きな人の物語への思い入れとか敬意とか、コトバへの信頼と、かないまへんわって諦めと、それでもどうしようもなく足掻いてしまう、みたいなもの。そういうのに触れるのが、好きみたい。
『熱帯』もそうだったよね。
うん、熱帯を女性的な空気で描いたような。
『熱帯』が冒険して成長する少年的な雰囲気だとするなら、『三月』は意志とは関係なくオトナになってしまう少女の戸惑い的な雰囲気。ストーリーは全くそういう内容じゃないけど。陰と陽で例えるなら、ってハナシ。
途中、謎の本の作者像を巡って「男性作家か?女性作家か?」って考察があるんだけど、なるほどたしかに作者の性別って、本の印象を変えるかも。
そりゃ、人間が書いて人間が読むんだからしょうがないでしょう。本を読む時に、私たちは主人公の視点で一緒に物語を体験するんですけど、無意識のうちに、さらにそのもう一回り外側のところで、作者の視点で物語を読んでいる。
作者本人の性別が本の世界観を左右するっていうより、「読者が想定する」作者の性別が本の世界観を左右する。
で、恩田陸さんは女性……だよね??私は無意識に女性作家の生んだ世界と勝手に想定して読んでいることに気付く。
その根拠は、先に述べた少女的な世界との関わり方。主人公が男であるか女であるかは関係なく、世界の切り取られ方描き方が、そう思わせるのかな。
女ってのは相手を通して自分を見てるようなところがあるから、相手の欠落を埋めたい、必要とされたいって願望が第一なのよ。要するに自尊心だけなんだけどさ。相手を崇拝したい、憧れたいっていうのはせいぜい十八歳くらいまではないかしら?だから手間のかかる人、どうしようもない人、だけどあたしじゃなきゃ駄目なのでってとこがないと女にはもてないわよ
生物学的ジェンダーにこだわってるわけじゃなくてね!
それにしても、物語が好きな人が熱く語る物語論、読んでてわくわくするよ。
「でも、私は楽しくってね。物語が進行中である、というこの瞬間が楽しい。いつまでも終わってほしくない。そうは思わないかね?」
「そうですねえ。いつだって読者は貪欲ですからね。常に新しい物語を待っている。誰だって、新しい物語は夢でしょう。本を閉じたあとも、本の外に地平線が広がり、どこまでも風が吹き渡るような話。目を閉じれば、モザイクのようなきらきらした断片が残像のように蘇る話」
「人生と愛の謎が秘められた物語」
「人々が書き継ぎ、語り継いでゆき、新たに伝説を産むような物語」
夜、暖かい家の中で、これから面白い話を聞くのを待っている。恐らく、大昔から世界中で、なされてきた行為。
やはり、人間というのはフィクションを必要とする動物なんだな。まさに、その一点だけが人間と他の獣を隔てるものなのかもしれない。
フィクションを求めるのは、人間の第四の欲望かもしれない。なんのために?たぶん、想像力という他の動物にはない才能のためだろう。フィクションを求めることで、我々は他の動物たちと袂を分かったのだ。
我々の向かうところは分からないし、最終的に何を用意されているのかは分からないが、その日から我々は孤独で複雑で不定形な道のりを歩み始めたのだ。
「あり得たかもしれないもうひとつの現実」を描くファンタジー、SF。そういうジャンル分けされた物語だけじゃなくってね。あらゆるフィクション(Fiction=虚構)は、人間の世界の土台になるエネルギーを秘めてるんじゃないかな。
そもそも、「言語」の性質がそのまんまフィクションだからね!
そりゃそうかってはなしなんだけど。
作家の物語論は、ほんとそれだけで物語。
物語は情報やメッセージと違って、「要する」ことができない。タイパ重視、物語すら要約や解釈、考察がオリジナル以上にありがたがられる時代・・・
だからこそ、物語を物語として楽しむ人たちのコトバにグッとくる。
ファンタジーが単なる逃避や願望の充足に成り下がったり、空虚なヒロイズムや無思慮な暴力への耽溺に陥ったりすることがときにあるとしても、ファンタジーが定義からしてそういうものだというわけではないのです。
(中略)
想像力による文学は、今もなお、ヒロイズムとは何かを問いかけ、権力の源を検証し、道徳的によりよい選択肢を提供しつづけています。想像力は倫理について考えるのに役に立ちます。
戦いのほかにたくさんの比喩があり、戦争のほかにたくさんの選択肢があります。そればかりか、適切なことをする方法のほとんどは、誰かを殺すことを含んでいません。ファンタジーは、そういうほかの道について考えるのが得意です。
そのことをこそ、ファンタジーについての新しい前提にしませんか。
(中略)
フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは、物語を語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。
物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。
また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。
しかし、それはメッセージをもつ、ということと同じではない。
文学的な短編や長編の複雑な意味は、その物語そのものの言語に参加することによってのみ、理解可能だ。その複雑な意味をメッセージに翻訳したり、訓話に縮小したりすることは、もとの意味を歪め、裏切り、破壊する。
人はなぜ好きになり、嫌いになるのか。
他者の幸福を喜び、その一方で不幸も面白いのはなぜか。
なぜ人は 嫉み、うらやみ、出し抜きたいのか。
運、不運はなぜ誰もに等しく訪れてはくれぬのか。
なぜ人は損得にこだわり、奪い、殺し、戦をやめられぬのか。
その問いを、人々は小さき物語に、時には長大な物語に託してきた。
幾世代にもわたって少しずつ細部をつけ加え、あるいは削ぎ落としながら語り継いできたのだ。答えの出ぬ問いを発し続けてきた。
物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。物語は物語自身のために存在する。
この、人間中心に物語があるんじゃなくて、物語のほうから人間の世界に(侵食するように!)接触してくる、ってイメージがとってもわかるの。
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』の原作(だよね?)、ジョン・コナリーの『失われたものたちの本』も、そんな世界だったね。
彼が住むのは想像の世界、あらゆる物語が始まる世界なのです。
物語はいつでも、読まれたり声に出して話されたりして命を吹き込まれたいと願っています。そうやって物語は、彼らの世界からこちらの世界へとやってくるのです。
そして物語と出会ったニンゲンが得られるチカラ。
それは豊かさ、愛であったり・・・
おそろしいまでの破壊に導く力であったり。
物語の中の物語、世界が無限に入れ子状に続いている合わせ鏡の恐怖、円環の不気味さ、コトバの魔力・・・そういう物語が好きってわかったんだから、やっぱりボルヘス作品読まなきゃだな。
近ごろは入れ子式になった小説というのがはやりだそうで。一つの物語の中に、幾つもの話がほうり込まれ、最後に包括されるという形式のもの。
私は、これは現代の我々の生活が巨大な入れ子であるという状況が影響していると考えています。TVドラマを見て、ドラマのストーリーや人物のキャラクターが商品や記号として語られる。たくさんのゲームソフトの中で、架空の戦争と複数の選択肢が消費される。スイッチを切ったとたん、箱の中の物語は終了。我々はその外側の世界を生きる。
新聞を読めば、我々の日常はまた、現実という生みに多数漂流する小さな箱の一つでしかない。その外側には得体の知れない悪夢のような世界が広がっているというわけです。
その昔は、人間がマクロな視点というものを獲得するにはそれなりの努力というものが必要でした。命を懸けて大航海をするか、宗教や、哲学といったものから学んでいくしかなかった。しかし、現在はいとも簡単にマクロな視点が手に入る。航空地図でも、青い地球の写真でも。みんなが神の視点を手に入れたわけです。
そのことによって広い世界を獲得した人がいるかもしれないが、実際にはそれほどみんな幸せにはならなかった。自分の存在の卑小さだけが身に迫り、他人との差別化に血道を上げることになる。
ゆえに、他人の人生がジェットコースターのように展開され、自分の掌に収まるフィクションが好まれるということになる。自分の人生が他人に消費されているということを否定し、他人の人生を自分が握っているという錯覚に陥ることを望む。
自分は外側の世界にいたい、という気持ち。それがこんなに多くの入れ子構造の物語を産んだ背景ではないでしょうかー
人間が一生に読める本は微々たるものだし、そのことは本屋に行けばよーく判るでしょう。私はこんなに読めない本があるのか、といつも本屋に行く度に絶望する。読むことのできない天文学的数字の大量の本の中に、自分の知らない面白さに溢れた本がごまんとあると考えると、心中穏やかじゃないですね。
内田せんせが、『だからあれほど言ったのに(マガジンハウス新書)』のなかで似たようなハナシをしてた。知的な態度は「自分の有限さを思い知った慎ましさ」、それを思い知らされるのが図書館(本屋じゃないけどね)って。
ボルヘスの『バベルの図書館』のイメージ。
生まれて初めて開いた絵本から順番に、自分が今まで読んできた本を全部見られたらなあ、って思うことありませんか?雑誌やなんかも全部。
そうそうこの時期はSFに凝ってたなあとか、この頃はクラスの連中がみんな星新一を読んでたなあとか。それが一つの本棚に順番に収まっていて、ぱらぱらめくれたら。そういう図書館が一人一人にあって、他人の読書ヒストリーをのぞくっていうのも面白いだろうなあ。
実はそういう図書館が、ある。物理的に、じゃなくて。
それがピエール・バイヤールが言う「内なる図書館」ってやつなんだな。
その内なる図書館の中で、どんな位置づけがされるか?が「本をどう読むか」ってことに関わってくる。
内なる図書館は階層性で、地下にぐんぐん深く降りていく書庫のイメージだな。個人のフロアがあって、共有図書のフロアがある。深くなればなるほど、無意識に参照される本たち。
世界は重層的で、謎に満ちている。数十億もの人々の幻想がある点では重なり、ある点ではずれて無限に連なっている。
それはフィクション(虚構、コトバ、物語)の重なり。
各々の世界の組み立て方、ハイデガーのいう道具体系だってそう。
さて、ハイデガー哲学。
「私の存在」と「私以外の存在」の関わり方、世界の成り立ちを「道具」という視点で整理されてるのが、おもしろかったな!
私にとって、私以外の存在はみんな「道具」的存在。なにかしらの目的、意味をもって、カテゴライズされるもの。モノのカテゴリーだけじゃなくて、人間関係のカテゴリー、自然環境も含めて。
自分が世界をどうカテゴライズしているのか?どんな分類で見ているのか?が、世界を組み立てる。
ああ、おもしろかった。
物語にまつわる物語、創作に足掻くプロセス、そういうお話でおすすめあったら教えて!!
真ん中に柱を立ててその周りを回る、というのは昔から世界中で行われている神に対する行為である。
だとすると、世界中でぐるぐる回っている回転木馬というのは、ひょっとすると神に近付くための何か神事がルーツなのかもしれない。日々華やかに回っている彼等は、神に向けて何かの願い(もしくは呪詛)を発し続けているのかもしれない。
確かにぐるぐると円を描いていると、その中心は真空になり、そこにそれまで見えなかったものが現れてくるような気がする。盆踊りしかり、ハンカチ落とししかり、サーキットレースしかり。回るという行為は人に何らかの恍惚をもたらすのである。
私のコトバも、ぐるぐるまわるよ。
過去記事から未来の記事へ、ブログの中でぐーるぐる。