頭の整理を兼ねて、メモ!
センス・オブ・ワンダー/森田真生
自然について。「知る」と「感じる」の対比。豊かな矛盾。
数学者、森田せんせの訳したレイチェル・カーソン。『センス・オブ・ワンダー』自体は、たしか読んだことあった。たしか写真集だったかな?
↓これだ、これ。リンクがうまくはれない。
レイチェル・カーソンといえば『沈黙の春』。国語の教科書?英語の教科書?で出会って、印象深かった学生時代。
森田せんせの数学論&絵本はおもしろかったなぁ。
「数」って、実体がない抽象的な存在なのに、物理的で具体的な身体を出発点にしている(でもそれは意識されない)って視点に、数学の面白さを垣間見た!
学生時代は数学そのものの勉強には楽しさを見いだせなかったけども、、、
たとえば「1」は、当たり前に使っているはじまりの数なんだけども、「1」って存在そのものはこの世に存在しないわけで。ひとつの◯◯、って数え方も、どこからどこを(あるいは何と何を)別個のものとして区切って測るか、って世界の捉え方を共有することが大前提になっている。
森田せんせの著作『数学する身体』を通して、数学者、岡潔せんせを知った。「情緒と喜びを二元素とする新しい宇宙論」を目指す、日本の数学者・・・しびれた。
岡潔氏の私的印象に残ったキーワードは「情緒」。「心」と言ってもいいけども、「私」に固着した心じゃなくて、私もあなたも人に限らずアレもソレも自在に通り抜ける、もっと大きなエネルギーのようなもの。
「情」の緒(いとぐち)は環境の至る所にあって、それを受け取るとき、感じるとき、私達は心(身からだ)を動かす。感動する。それが情緒。
森田せんせも情緒的なものにすごく関心が強い数学者なんだろうな。
『センス・オブ・ワンダー』では、知性と対比した心、とくに「心のWonderな働き」を取り上げる。ゆれる心、目的や定まったカタチをとらずに、ただぶらぶらと、いきいきと、周囲と響き合いながら「感じる」心。
『センス・オブ・ワンダー』後半は森田せんせのエッセイなんだけど、そのセンス・オブ・ワンダーを「子どもの心=自然の姿」と表現しつつ日常を綴っている。
自然ってのは、モノA、モノB、モノCってふうに、たくさんのモノの集合体なんかじゃないの。それは様々なモノの織りなす網。
その網の中で、役に立たないように見えるもの、足かせのように見えるものすら、思わぬ役割を担っている。ひとつの尺度では「わからない」ものがみちみちているのが、自然。
わからないものはわからないまま。
「知る」ことでは触れられないものを、「感じる」。
「分かる」(白黒わける)ことができない矛盾を、受け入れる。森田せんせが表現した「豊かな矛盾」ってコトバ、すてきだなぁ。自然には、(そして子どもの心には)矛盾が共存できる広やかさがある。
それを奪っちゃいないかい?忘れちゃいないかい?
科学者、寺田寅彦氏のコトバが引用される。
古来人々は、常識では測り難い世界、日常世界の彼方を受け入れていた。化け物の仕業、として。人間の理解を超えた自然界の不可解な現象・・・現代はその存在を認めなくなった。
化け物は、迷信だと退けられ、駆逐される。
しかしこれこそが迷信!!!と寺田氏は言う。
なぜって、宇宙は怪異に満ちているから。
その怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでいるのである
自然について、ワレワレは理解できているのだ。その全てを捌いて、中身を見通せているのだ、という傲慢。わからないことをわからないままに保留しておくことのできない器の小ささ。
そういった豊かな矛盾をはらむ自然、謎、真理に向き合うのは「哲学」の役割なんだけども。それは真理を目指す行為の前提が、真理には到達できない事実を出発点にしているっていう、矛盾に立ち向かうこと。
高い高い棚の上にあるぼたもちを覗き見るために、登っているそのはしごを、捨てなきゃいけない。
それから、『センス・オブ・ワンダー』を自然の美しさを感じる心としてとりあげた日本語について。
美しさを感じるということは、「うつくしむ」という行為。慈しむ。愛しむ。
愛おしいことを、「愛(かな)しい」と古い日本語は書く。
「かなし(悲、哀、愛)」の語源「カヌ」はできないって意味。
大切を思うものを失うときのなすべのない気持ち、無力さを感じていっそうにせつなく、愛おしく思う気持ち。この愛おしさを表現するのに、これ以上なにもできないっていう自分の無力さ。そういう存在にふれたときの感動、ありがたさ、心打たれた気持ち。
日本人の、自然に対する「畏怖」を感じるコトバだな。
自分の無力さ、ちっぽけさ。それは大きな存在に対して卑下してるとかへりくだってるとか、そういうのとちょっと違うんだ。
無限の大きな存在に対して、自分の有限さを自覚する。
ワタシという枠組みには限界がある。でも、その境界線を超える存在にふれることができる。というか、無限に触れられるのは、そのうつくしさをかんじられるのは、うつくしむことができるのは・・・かなしき(愛しき)かな、ワレワレが有限であるからこそなのだ。
美しいと感じた心を、感動を、その世界の美しさを丁寧に描写する。言語という記号で書き表せない部分に、声という空気振動からは聴き取れない部分に、その感動のエッセンスがある。
そのエッセンス(成分)が、「愛」の素なんじゃなかろうか。いや、愛そのものなのかも。
そんでもって、その無力さをコトバに刻むのが、詩人たち。
人間の建設/岡潔、小林秀雄
小林秀雄せんせとは、去年『学生との対話(新潮文庫)』で出会った。学ぶとはどういうことか?信じるとはどういうことか?脳みそギュインと刺激してくれる本だった。
よく知的階級の方々に絶賛されているこの本。
私ももうちょっと人生経験を重ねたら、共感できる部分が増えるのかもしれない。どうしても「昔の日本人の精神は高潔だった(しかし今の時代、若者は・・・)」な老人談義に見えてしまって。(笑)
例えば特攻隊を日本人の理想の精神として取り上げる部分。
自分の命を犠牲にして、他者のために奉仕する美徳を強調すること。
これは私、好きじゃない。
面白かったのは、岡潔せんせのキーワード「情緒」を、世界の始まりにも当てはめているところ。キリスト教的な視点で見ると、時間と空間が生まれて、世界ができた。
時間と空間、時空が始まるのは、自他の区別が生まれるってこと。「1」という概念が理解できるようになるってこと。自分/世界の境界線をひけるようになることで、森羅万象が生まれる。時間という概念が生まれる。
でも、自他の別が生まれる前、「1」に思い至る前の段階が人間にはある。それが情緒の世界。境界線を超えて、自他が混ざり合う赤子の世界。浸透しあっている世界。
この浸透しあう「情緒の世界」って、エマヌエーレ・コッチャが言う「植物的世界」なんじゃないかな!!世界の中に自分がいて、自分の中に世界がある。(ミクロコスモスとマクロコスモスのイメージとは、また違う、穴だらけの靴下の裏表が絶えずひっくり返ってるような世界観)
それから、「記憶」。
記憶がよみがえる、ってのは、自分の意志でどうこうして起こるわけじゃない。幼児の懐かしさに連れ戻すような、感動がそこにある。その懐かしさは、言葉以前の原始的な世界。さっき言った「情緒の世界」。ここに立ち返ることこそが、「不易」なのだ、と。
不易、変わらぬこと。
人は記述された全部をきくのではなく、そこに現れている心の動きを見るのだから、わからん字が混ざっていてもわかると思います
「知ろう」とするんじゃなく、「感じ」ようとしてくれるんなら、そうだろうね!そういう読者でありたいし、そういう読者に読んでもらいたい。