昔の読書メモの書き起こし。
本のタイトルは哲学者フィヒテのことば「君自身に還れ。君の外にあるものすべてから目を向け変えて、自分の中へ還れ」より。
言葉は価値あることをはなすためのもの。
ここでいう「価値」は「意味」と対比されてる。
「意味がある言葉」ってのは、有用、役に立つ、なにかしら目的があってそれを達成するための言葉であったり、意図のある言葉とかを指してるぽい。
それに対して「価値ある言葉」は必ずしも意味があるとは限らない。言葉を発することそのものが目的だったり、手段ではない言葉の大切さを見直そう、みたいなハナシもしてた。
勝ちってのは”損得”ではかれるもんじゃないんです。
実用性や有効性を伴わない言葉(それ自体が目的となる言葉)の最たるものが、詩。
詩人は言葉でどうにもならない世界に言葉で向かおうとするから、「菩薩」的だよね、って。
哲学者も「詩人」的であれ、ってのが二人の著者の主張。
言葉にもっと感性を鋭く持つべし。
ウィトゲンシュタインは言葉に出来ない領域がある、と認めた。それは存在しているけど、語ることは出来ないんだ、って。そうだとわかったうえで、その先を見つめるのが「詩人」。
「内省するとはこういうことですよと、説明してわかることではないですしね。今氾濫している言葉は、内省されたものなんかではまったくなくて、周りが言ってる言葉、世間の意見が自分の意見になってしまっている。それで考えてるつもりになってる人が大多数ですよ。ただ人の意見を思ってるだけなんです。それを自分でもう一回考えてみることはまったくしていないで、流行りの事柄を漠然と思って、自分は考えてると言い張っている。」
「言葉を流通させているだけで、語られている言葉本来の価値を考えようとしないんだね。では、言葉の価値って一体なんだろう。」「言葉の価値というか、言葉は価値そのものでしょう。」
死のリアリティが無くなっている現代は、生のリアリティも失ってしまった。
死を避ける、見てみぬふりをする、考えることを放棄する。死は自然現象の一部なのに、今や死が「不自然」なことであるかのような考え方が一般的なのはおかしなこと。
何かの間違いでも、不運でも、誰かのせいでもなく、それは「当たり前」のこと。(現象としてはね)