「予防」は評価されにくい
トラブルは予防するほうがコスパがイイのに、100のトラブルを予防した人よりも、1つトラブルを解決した人の方が圧倒的に称賛される。「今日は何も起きませんでした」というときこそ、水面下で働いてくれたたくさんの人を称賛したい。
スタンダードじゃないから価値がある
私が占星術やカードを熱く語りたくなっちゃうのは、それがスタンダードじゃないからなのかも。もし大多数の人が「これって、思考整理に有効なツールだよね」とか「健康的で面白い遊びだよね」って思ってるんなら、それを声高に言う必要も熱さも全然ないわけで。
学びには「実体験」が必要不可欠
他人と共生・協働する能力、あるいは人を見る目を養うといったことは、自室でかちゃかちゃキーボードをたたいているだけでは身に付かない
オンライン学習がぶわっと広がったけども、その上でリアルな現場で学ぶべきことはなんなのか。リアルでしか学べない(しかもこれからの時代さらにダイジになってくる能力)ことは何なのか。
嘘をついている人間を見破るには、目の前で嘘をつく人間を実際に見ないとわからない。敬語の使い方とか、他人との距離の取り方とか、合意形成の仕方とか、説得の仕方とか、現場にいないと習得できないです。
ときどき、とてつもなく邪悪な人間っているじゃないですか。邪悪な人間はやはり邪悪なオーラを出している。見た目はふつうだけれど、そばに行くと肌に粟を生じるということがある。そういう邪悪な人間や、自分の生命力を減殺する人間を感知して、そっと逃げ出す能力というようなものは、これはやはり集団の中に身を置いていないと身に付かない。
危険を感知するセンサーって、たぶん子どもが身を護る上でいちばんたいせつなものなんだと思います。極端な話、他のことはどうでもいいんです。危険なものが近づいてきたら、鳥肌が立ったり、息が苦しくなったりという身体反応が自然に起きるはずなんです。そういう「アラーム」が鳴ったら、とりあえずそこから逃げ出す。そういう身体感受性を子どもには教えないといけない。でも、これは実地訓練しか方法がないです。
身体感覚について掘り下げた対談本も、おもしろかったよ。
施しと「屈辱感」
品位ある社会(福祉)制度は、「屈辱感」を生じない。
施し→受給者という縦軸でしか関係性が結べないことに、私は「なんかヤダ」って思っちゃう。
本書では子ども食堂について対談が展開している。私もちょこーっと子育て支援関係の活動をしていたから、本当に必要な人に必要な「助けるよ」って差し伸べられた手が届いてるんだろうかって思うことはちょくちょくあった。
結局、あげる人⇔もらう人 って構図が無意識下にある限り、その場で終わり感というか、「なんかヤダ」感がまとわりついて、結局もやもやを解消できずに私は活動からフェードアウト。
学びに関してもそう。「教えて」って言ってくる人は、やる気があるように見せかけて、ない。私は英会話サークルをやってるけど、教える人(先生)vs教えてもらう人(生徒)というカタチにならないことにこだわってる。
あと、「屈辱感」がひっくり返って開き直っている人。Taker(テイカー)って、ここから出てくるんじゃない?って思ったり。
パス回しの世界
贈与者はいつも「送り先」について考えているからである。
というか、いつも「送り先」について考えているもののことを贈与者と呼ぶのである。(…中略…)
すぐれた「パッサー」であるためには、パスを受け、さらに次のプレイヤーに送る用意のあるすぐれた「パッサー」たちとの緊密なネットワークのうちに「すでに」あることが必要である。
「内田樹の研究室」2009年12月24日
ラグビー選手の例えが面白かった。ボールそのものに価値があると思い込んで、しがみついて離さないプレイヤー(笑)
「贈り物経済」のコンセプトを私が初めて知ってショックを受けた本。
以上!読書メモより。