わたしにとっての民俗学とは、まず「感情」を手がかりに、さまざまな社会現象に取り組む姿勢のことである。過去の人びと、現在を生きるわたしたちの感情が反映していると考えているのだ。
~中略~
土地や場所、記憶や記録、あるいは広い意味での信仰について考えることであり、すべて感情にかかわることなのである。
(序 ― 二十一世紀の「感情」より引用)
「民俗学」と聞くと古い民話や伝承を研究する古びた学問なイメージがあるんだけど、新鮮なハナシに感じた。目次を見たら、その面白さと民俗学の雑多なオモシロサがわかると思う。
- ザシキワラシと自撮り棒
- 宇宙葬と星名の民俗学者
- 薬師如来と「ガルパン聖地」
- テクノロジーの残酷
- 景観認知症
- 文殊菩薩の化身たち
- 無音盆踊りの「風流」
- ポケモンGOのフィールドワーク
- 祭の「機能美」と戦後建築
- 複数のアメリカ国家
- UFO学のメランコリー
- 山伏とホメオパシー
- お雑煮の来た道
- すべての場所は事故物件である
- 河童に選挙権を!
- 大震災の「失せ物」
個人的な「感情」にひっかかった部分
ゴガクが好きな理由、として何度かこのブログにも書いた気がするけど、私は「コトバそのもの」に結構興味がある。コトバというカタチの裏側にあるニンゲンらしさ、というか。
それって、民俗学の領域でもあったのかー
最近は特に、宗教以前の「信仰」と、その源になっていたものについてすごく気になっているわけだけど。確かにそれはザ・民俗学だな。
『名前の変化、言葉の変化をさかのぼりながら、その時に生きた人が何に心を震わせて、何を願って、結果としてどんなカタチが残っているのか。そして消えてしまったのか。そこにロマンを感じるわけです。』
この本では場所の記憶、集合意識が生み出す像(=妖怪や伝承のモト)について何度も書かれていて、東日本大震災に絡む話も多い。そのことについて16章 大震災の「失せ物」という章で表現されていた一文がなぜかグサッときた。
忘れようとしても 思い出せない。
バカボンパパの、よく知られた不条理発言がある。しかしこれは赤塚不二夫のオリジナルではなく、上方漫才の大御所「唄子・啓助」の鳳啓助のギャグである。記憶を忘却し、失ってしまうことに対する不安を、これほど不気味に表した言葉は、ほかにないだろう。「忘却しようとしても何を忘却すべきか想起できない」という解釈もなされるけど、考えるだけで胸がざわざわし、心が落ち着かなくなる言葉だ。
昔、「忘れていくことを忘れてしまう」悲しさというか虚しさに大泣きする、という変な夢を見た。あれは亡くなったじーちゃんの夢だった。ニンゲンは3次元に生きている限り「時間を傍観する」ことができないんだけど、ひょっとしたら夢の世界なら次元を超えることもできるのかもしれない。
もうひとつ、夢と記憶と時間に関する不思議な夢のハナシ↓
わたしたちの感情は、政治や経済とどのような関係にあるのか。感情にもとづく文化は字や経済に左右されるのか、あるいは左右する力を持っているのか。社会について考えていくいうえで、民俗学は基礎になるべき学問であり、方法になりうるものだとわたしは考える。そのためには二十一世紀の民俗学は境界線上にあるものごと、どのような領域に属するか定まっていないものごとを対象にしていかなければならない。さまざまな局面で対立軸だと思われていること、生者と死者、人間と動植物、保守とリベラルといったものを超えた視点が求められている。
カタチある現象と、カタチなき世界の境界線を探る、というのは私の興味の方向性でもある。ふたつの対立を超えた視点、上の次元の視点を持つこと、を孔子は「仁」で表現した。
8年前にも、「記憶」ってなんなのか一生懸命考えて(?)いたことがあった。変な絵。
全然関係ないけど、POCASTはじめました。(笑)